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2014年4月13日 (日)

Walk in the Spirit

ガラテヤ 5章16節

 この言葉はクリスチャンである私たちへの命令形です。すでに当時にもその兆候が現れ、使徒時代の終焉とともにそれは、今に至までほとんどのクリスチャンに適用される命令となりました。しかし20世紀はじめから再び聖霊の注ぎが起こり、今現在「聖霊によって歩」んでいるはずのクリスチャンですら、これは重要な命令なのです。お一人お一人の良心にお聞きしますが、みなさんの心の中に「不品行」「汚れ」「好色」「偶像(個人)礼拝」「占い(魔術)」「敵意」「争い」「そねみ」「怒り(憤り)」「党派心」「分派」「ねたみ」「泥酔(酩酊)」「遊興」が、いっさい存在していないと言い切れるでしょうか?少なくともこの私にとっては、過去私を支配し、その縄目を解かれた今現在も、不断に戦っている相手であります。

 そんな私は二十歳でバプテスマを受け、それから30年以上、表向きには熱心に教会生活と奉仕を続け、天国に行く切符をゲットしていると思っていました。40才を過ぎて長い長い試練に、塗炭の苦しみにもがきました。50を過ぎて、神のあわれみによってそれまで可としていた自分の罪深さを、突然気づかされ、それから生涯でもっとも心に残る、深い悔い改めを三日間しました。三日目の朝、日曜日でしたが、教会に行こうとして神様が私に触れてくださったのです。
 

 誤解を恐れずに言いますと、聖霊様とは、私とはっきりと異なる人格です。その出会いは、心の中の異物的に存在する言葉への、晴天の霹靂的な気づきだと申し上げても良いでしょう。「この言葉は何!誰がこのような思いもしないことを言っているんだ?どうして私のことがぜーんぶわかってるんだ!」そんな感じです。逆に聖霊様が「自分とはまったく異なるものでない・・・違和感がない」なら、それはひょっとして聖霊様ではないのかも知れません。それはあなた自身の、単なる思いではないのか?と。それなら聖霊ではなく、自らの肉の思いかも知れません。
 

 どうすれば聖霊によって歩むことができるのでしょうか?私にもそうであったように、徹底的な悔い改めです。自分に何一つ善が無いことを知ることです。この点について私は妥協できません。肉なる自分のいっさいが空しく、ただ神のあわれみだけが私たちの希望なのです。よく信仰・信仰と言われますが、具体的には信仰とは神様と自分との間柄(関係)なのです。私は神様を何よりも愛しています。それは神様を知り、その愛がわかりました。そのすばらしい十字架の愛は、世の何ものを持っても代えることができないものです。ですから私は神様を信頼し、惜しみなく自分のすべてを捧げることに同意するのです。
 

 何事でもそうであるように信頼とは、実際によく知り、わかっていなければ無理です。聖霊のバプテスマに代表されるような実際の体験が不可欠です。英語のfaith=信仰とは信頼・誠実・忠実とも指す言葉です。個人的な関係なくしてその堅い信仰はあり得ません。この関係そのものが本日の「Walk in the Spirit」の意味であります。

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