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2014年5月

2014年5月25日 (日)

サレムの王メルキゼデク

ヘブル 6章20節 

 いと高き神の大祭司にして今のエルサレムであるサレムの王メルキゼデクとは、旧約聖書における最大のミステリアスな人物と言っていいでしょう。メルキゼデクに関して知りえる内容は、ここ以外には旧約にはなく、突然アブラハムの前に現れ、その後も消息は不明です。 確かなことは、アブラハムがその人生最大の勝利にあたって、メルキゼデクがアブラハムを迎え祝し、アブラハムまた十分の一のささげものをしたということです。

 これは何を意味するか?二つの驚きがあります。一つはイスラエル民族以外に真の神を崇める他民族の人々が居たということ。そしてそれは、後に神殿の置かれる都エルサレムの王であり、唯一の神の祭司であったと言う点です。 

 モーセの時代から始まるレビ系の祭司制確立のはるか前、イスラエルの祖アブラハムが祭司として認めたメルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って現れ、アブラハムを祝福しました。このような祭司としてのメルキゼデクの存在は、後の律法による祭司に優るものであることはもちろん、イエス・キリストを彷彿とさせます。

 メルキゼデクはヘブル書によれば「(出自もなく、死ぬこともない)永遠の大祭司」であるとされています。従ってこのメルキゼデクについて諸説ありますが、私はイエス・キリストご自身が一旦地上に来られた姿ではなかったのかと思っているのです。

 しかしメルキゼデクは「父もなく、母もなく、系図もなく」と出自もわからないだけでなく、「その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです」とヘブル書7:3にあるからです。「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい(同7:4)。」とある通りです。

 

後のレビ系祭司制度は、はなはだ不十分なものでした。民のための犠牲のささげものをしましたが、自分自身にもささげる必要があり、しかも永遠ではなく代替わりを続けなけれぼなりません。 民の罪を贖うものとしては、これは「天にあるものの写しと影」であり、本物、つまりイエス・キリストが来られた時には従来の祭司制度は廃止されるべきものでした。

 

いま私たちにはイエス・キリストがおられ、自分の罪のためには動物を犠牲にして捧げる必要はありません。キリストご自身の血に優るいけにえの血はありません。それゆえどんな罪でも直接神にとりなしてくださるイエス・キリストを信じ、罪を告白して悔い改めれば、それは完全にゆるされ、ハレルヤ!無かったことにしていただけます。

 それで私たちは恐れること無く、神の御前に進み出ることができるのです。また神は聖霊を送ってくださり、個人的な主として私たち一人一人の内に、永遠の神の国の聖所をつくられます。なんという恵み、喜びでしょうか。

 

大祭司だけが、至聖所に入れる特権を有します。メルキゼデクが永遠の大祭司であるとは、後のイエス・キリスト以外には、ありえないのです。

2014年5月18日 (日)

悔い改めの恵み 

†  テトス 3章5~7節

 《セウォル号事件》
 一ヶ月前の4月16日8時48分、韓国の珍島沖でフェリーボートが沈没し、死者281人不明者23人の犠牲者を出しました。痛ましいことは、300名以上にのぼる若き高校生たちの命は、救えたはずの死であったことです。船長が「不作為の殺人罪」で起訴されていますが、避難をしないような放送をしながら、船長をはじめ乗組員が真っ先に逃げたという、恐るべき人災でありました。実はこの事件には、このような行いをする背景、特定の宗教がありました。

 この船会社のオーナーは兪(ユ)ビョンオンという、韓国では「キリスト教福音浸礼会」、日本では「喜びのニュース、グッドニュース宣教会」とか称している教祖です。このオーナーによる各会社の幹部クラス、もちろんあの船長も皆信者です。韓国の新興宗教の一つであり、ウィキペデアによると、名前はキリスト教そのものですが、キリスト教の名を語る異端だとされ、以下のような教えを持っています。
⚪︎本当の救いは、救いを悟ることによってのみ得られる。
⚪︎天国へ行くためには「私は義人だ」と告白すればよい。
⚪︎悔い改めるのは救われていない証拠であるから、悔い改めるクリスチャンは地獄へ行く。
⚪︎自分たちは救われているので悔い改める必要はなく、罪を犯してもすべて許される・・・・・殺人など、どんな罪を犯しても天国へ行けるとしています。
なるほど、このような教えをもっていれば、職務を放棄して304人を見殺しにしてもかまわないわけです。看板も偽りですが、その教えはまったく聖書に反しています。どうしてそうなのかを、今日の聖書箇所から見て行きましょう。

義としてくださるのは、ただ神によってのみ
  本日の聖書箇所で、このテトスはテモテとともに、パウロの片腕の一人でした。パウロはテトスを時にはクレタに残して残務整理をさせたり、ふたたびそばに呼ぶために代理の者を送ったりしています。若いテモテに比べ、おそらくパウロが最も信頼していた片腕でした。テトスに対してはテモテのように教え諭すのではなく、確認するような内容であるのも、それを裏付けます。特にこの5節において「義」と認められるのは行いによらず、ただ神のあわれみ(愛)による書いてあります。自分で自分を義とするなどとは、神を畏れぬ高慢であります。それだけではなく聖書は私たち一人一人に聖霊のバプテスマと新生、悔い改める謙遜を、聖霊によって与えてくださいます。これは私たちを真に神の国の世嗣としてくださるためなのです。自分の力ではなく、神のあわれみという愛が、聖霊を通して注いでくださるのです。ですから「自分を義人だ」告白すれば良いなどとは、とんでもない誤りですし、特に「悔い改めるのは救われていいない証拠だ」いうのは、聖書も神も何もわかっていないことを自ら暴露していることを明らかにしましょう。

真のクリスチャンには守るべき自分と言うものがない
 真のクリスチャンというものは、再々悔い改めをします。ここが真の神を知らない人にとっては理解できないところです。私も三十年、普通の正統的なプロテスタント教会員として歩んでいても、実のところよくわからない、つまりあまり悔い改めの必要を感じていなかったという経験があります。

 その理由には、実際の神を体験していないので、「神の聖さがわかっていない」という点があります。神のあわれみによって、神ご自身が触れてくださった者には、いかに神が聖であり、自分が汚辱と罪にまみれているのかが対比的にわかります。イエス様のたとえ話に、畑で宝を見つけた者は、全財産を売り払ってでもその畑を買い取るという話しがあります。神を体験しその聖に触れたならば、つまり聖霊のバプテスマや新生した人というものは、これまでの自分の価値観がまったく変わってしまいます。塵芥(ちりあくた)のごとく、それまで後生大事に思っていたもの一切が色あせて価値を失い、代わってそれを神に見出すのです。クリスチャンには守るべき自分、プライドというものがなくなります。謙遜になるとは、このことを指します。

 問題はこの点であり、次に明らかになるのは、このような醜い肉の自分を十字架にかかってまで愛してくださった神への「愛の応答」です。よくクリスチャンが証ししたりブログにおいては、過去の自分の恥ずかしい罪や失敗を喜んで述べていますが、別にサディスティックになっているわけではありません。ただ、ほむべき神の栄光を明らかにしているだけなのです。ひたすら神を恋い焦がれて待ち望むようになり、求めるようになります。その臨在にあっては、圧倒的な神の聖さの前に、ただ己を悔い改めるしかありません。栄光は神のもの、私たちはただひれ伏して神を拝し頌(たた)えるのです。

 悔い改めないクリスチャンは、自分を義としているわけで謙遜もなく、神のあわれみの内に留まってはいません。悔い改め続けることは、神の前にある者にとってふさわしいことであり、またそれゆえ、神が私たちを愛してくださるのです。真に神を知る者、その恵みにあずかる者は、悔い改めることの絶大な恵み・・・‥子として神の国を相続できることを知っているのです。ましてそれを「地獄に行く」などとうそぶく方こそ、本当にお気の毒な人なのです。さあ、神に心から悔い改められる恵みを神様に感謝しましょう。

2014年5月11日 (日)

もしかすると・・・悔い改めて

Ⅱテモテ 2章24〜26節

 今回のG・Wで信州に行って、親族との楽しい交わりができました。唯一残念だったのは、いつものことではありますが、またも親族への伝道が不首尾に終わったことです。つくづく人の救いは人にあるのではなく、神の御手の内にあることを強く感じさせられました。

 本日の聖書箇所で「悪魔にとらえられて思うままにされている人々」とありますが、ここでいう「捕らえられて」とは、信仰に入ることを妨げるあらゆる人間の思念、状況を指します。霊的に理解するなら、サタンが人を神から遠ざけ、信じないようにさせるあらゆる策略であり、人はそれがどれほど恐ろしい結果を招くことになるか、何もわからなくされているという意味です。
 私も同じ長男でしたのでよくわかるのですが、「長男」という縛りがあります。家、財産、菩提寺など家督を守らなければならない責任のことです。次に先祖たちの救いはどうなるのか?という問題があります。しかし一番大きな問題は、これは万人に言えることなのですが、自分が人生の主役なのではなく、主役は神であると言う点です。今回もこれが突破できなかった理由でした。

 「十字架に架かってまで私たちを愛してくださった神を信じ、神に聞き従う人生こそ・・・・」と言いますと、「それじゃあいけねえだ。自分で自分の人生を切り開いて行かなくてどうする」と。その通りです、がしかし、その通りではありません。この越えられない溝、これを突破し、信じない者から信じる者へと変えてくださるのは、人の力ではなく、神の力であることをあらためて強く意識させられるのです。なぜならそのように自分を信じ、努力し、自分の力で切り開いて行くと言う考えは、世の大勢を占める価値観です。それに比べクリスチャンの考えは、どうしてもマイナーなのです。

 ところで私たちはどういう経緯で、自分の人生を神に明け渡したのでしょうか?この点について私は自分の体験からはっきりと、神の御手が私に及んで働いたからだとわかっています。人生最悪な挫折と絶望の中、神が私に触れてくださり、深刻な悔い改めをした結果なのです。それはちょうどキリストの十字架は、サタンの大勝利かと思われた瞬間、大逆転し神の大勝利へと変わったようなものでした。私たちの危機的、絶望的な困難こそ神を信じ、絶大な神に触れ自分を明け渡す大逆転の勝利となったのです。

 箴言5:23に「彼は懲らしめがないために死に」とあります。困難や挫折という、懲らしめられることこそ私たちへの神の愛のあらわれです。自分に希望を見失って初めて、神を信じ受け入れることができました。信じてみてはじめて、これは永遠の祝福であり、いのちに優る宝物だとわかりました。あまりにもそれがすばらしいので、これまで自分が大切だと思っていたあらゆるものが光を失いました。自分の命すら問題ではないことがわかったのです。ですからクリスチャンというものは、強制されてではなく、よろこんで自分から神に、自分自身を明け渡すのです。

 こうしてみると、神を信じるためには「懲らしめられる」祝福が大きな働きをしていることがわかります。まさか困難が起こるようにと祈ることはできませんが、真に神を信じ、自分を捧げたくて仕方がないほど神を愛する親族になってほしい、そう忍耐をもって祈り続けたいと強く思わされました。私たちにその力はありませんが、神にはその力があります。神は栄光を私たちを通してあらわしてくださるのです。ハレルヤ!

2014年5月 4日 (日)

感謝は困難に打ち勝つ

1テサロニケ5:16−18  

「『感謝』の伴わない信仰は、来るべき終末時代の患難を乗り越えては行けないだろう」と言われています。それほど「感謝」は信仰の強力な武器であると同時に、更に大きな神の祝福を得る方法です。「感謝」は主の十字架においては信仰の土台であり、幾度も本日の聖書箇所はメッセージに、セミナーに引用されています。

   ここでの「感謝」は「すべての事について感謝しなさい」とあります。ですから良いことも、たとえ悪かったことでも感謝するという対応をいたします。これに次のような解釈もする人々がいます。「嘆き悲しんでも、過去は取り返しがつかない。だから考えを変えて、少しでも前向きに生きた方が結果が良い」からだと。しかしこれは理解が浅い「感謝」です。聖書の「すべてのことについて感謝」はこのような意味では言っていないのです。

 ではどのような理解が正しいのでしょうか。ローマ8:28に「神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことを働かせて益としてくださる」とあります。聖書に登場する人物を見ていきますと、アブラハム・ヨセフ・モーセ・ダビデとほとんどの人物に困難が許されています。中でもヨブに目をとめ、彼に許された困難を通して「感謝」を見ていきたいと思います。

 ヨブは神様の自慢が原因で、サタンに引き渡されます。もっとも富んだ者でしたが、一瞬にして全財産と10人の子ども全員を失いました。それでもヨブは「裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」と神を呪うという罪を犯しませんでした。さらサタンがヨブの全身を悪性の腫物で打ち、妻が「神を呪って死になさい」と言うほどでも「幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない」と罪を犯さなかったのでした。

 ヨブの物語に「感謝」は出てこないのですが、真の祝福はヨブのように、悪かったことが二倍の良かったことに変わることにあるだけではない。ヨブ記には記述してはいないが、ヨブには二倍の祝福以上のものがもたらされていたはずなのです。真の祝福が。

 困難や艱難は、それ自体が喜び感謝するものなのです。気が狂ってはいません。困難なしには人は己の高ぶりを心から悔い改め、心に自分を無価値な者として神に明け渡すことができないからです。その明け渡しの上に、神がその人の主となられ、神に聞き従うこと、隷属することが可能になります。真の神のしもべの誕生です。エデンの園で失われた神と人との交わりが回復されるのです。

 これはこの世にあって神の国が人の心の中に誕生することでもあり、これは地においても天においても永遠に続く祝福です。世も生もその人にとっては、もはや次元の低いものになってしまうのです。しかし困難なしには、これは得られないものでした。「すべてのことを感謝する」ことの真の祝福がここにあるのです。 アーメン。

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