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2014年5月11日 (日)

もしかすると・・・悔い改めて

Ⅱテモテ 2章24〜26節

 今回のG・Wで信州に行って、親族との楽しい交わりができました。唯一残念だったのは、いつものことではありますが、またも親族への伝道が不首尾に終わったことです。つくづく人の救いは人にあるのではなく、神の御手の内にあることを強く感じさせられました。

 本日の聖書箇所で「悪魔にとらえられて思うままにされている人々」とありますが、ここでいう「捕らえられて」とは、信仰に入ることを妨げるあらゆる人間の思念、状況を指します。霊的に理解するなら、サタンが人を神から遠ざけ、信じないようにさせるあらゆる策略であり、人はそれがどれほど恐ろしい結果を招くことになるか、何もわからなくされているという意味です。
 私も同じ長男でしたのでよくわかるのですが、「長男」という縛りがあります。家、財産、菩提寺など家督を守らなければならない責任のことです。次に先祖たちの救いはどうなるのか?という問題があります。しかし一番大きな問題は、これは万人に言えることなのですが、自分が人生の主役なのではなく、主役は神であると言う点です。今回もこれが突破できなかった理由でした。

 「十字架に架かってまで私たちを愛してくださった神を信じ、神に聞き従う人生こそ・・・・」と言いますと、「それじゃあいけねえだ。自分で自分の人生を切り開いて行かなくてどうする」と。その通りです、がしかし、その通りではありません。この越えられない溝、これを突破し、信じない者から信じる者へと変えてくださるのは、人の力ではなく、神の力であることをあらためて強く意識させられるのです。なぜならそのように自分を信じ、努力し、自分の力で切り開いて行くと言う考えは、世の大勢を占める価値観です。それに比べクリスチャンの考えは、どうしてもマイナーなのです。

 ところで私たちはどういう経緯で、自分の人生を神に明け渡したのでしょうか?この点について私は自分の体験からはっきりと、神の御手が私に及んで働いたからだとわかっています。人生最悪な挫折と絶望の中、神が私に触れてくださり、深刻な悔い改めをした結果なのです。それはちょうどキリストの十字架は、サタンの大勝利かと思われた瞬間、大逆転し神の大勝利へと変わったようなものでした。私たちの危機的、絶望的な困難こそ神を信じ、絶大な神に触れ自分を明け渡す大逆転の勝利となったのです。

 箴言5:23に「彼は懲らしめがないために死に」とあります。困難や挫折という、懲らしめられることこそ私たちへの神の愛のあらわれです。自分に希望を見失って初めて、神を信じ受け入れることができました。信じてみてはじめて、これは永遠の祝福であり、いのちに優る宝物だとわかりました。あまりにもそれがすばらしいので、これまで自分が大切だと思っていたあらゆるものが光を失いました。自分の命すら問題ではないことがわかったのです。ですからクリスチャンというものは、強制されてではなく、よろこんで自分から神に、自分自身を明け渡すのです。

 こうしてみると、神を信じるためには「懲らしめられる」祝福が大きな働きをしていることがわかります。まさか困難が起こるようにと祈ることはできませんが、真に神を信じ、自分を捧げたくて仕方がないほど神を愛する親族になってほしい、そう忍耐をもって祈り続けたいと強く思わされました。私たちにその力はありませんが、神にはその力があります。神は栄光を私たちを通してあらわしてくださるのです。ハレルヤ!

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