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2014年5月18日 (日)

悔い改めの恵み 

†  テトス 3章5~7節

 《セウォル号事件》
 一ヶ月前の4月16日8時48分、韓国の珍島沖でフェリーボートが沈没し、死者281人不明者23人の犠牲者を出しました。痛ましいことは、300名以上にのぼる若き高校生たちの命は、救えたはずの死であったことです。船長が「不作為の殺人罪」で起訴されていますが、避難をしないような放送をしながら、船長をはじめ乗組員が真っ先に逃げたという、恐るべき人災でありました。実はこの事件には、このような行いをする背景、特定の宗教がありました。

 この船会社のオーナーは兪(ユ)ビョンオンという、韓国では「キリスト教福音浸礼会」、日本では「喜びのニュース、グッドニュース宣教会」とか称している教祖です。このオーナーによる各会社の幹部クラス、もちろんあの船長も皆信者です。韓国の新興宗教の一つであり、ウィキペデアによると、名前はキリスト教そのものですが、キリスト教の名を語る異端だとされ、以下のような教えを持っています。
⚪︎本当の救いは、救いを悟ることによってのみ得られる。
⚪︎天国へ行くためには「私は義人だ」と告白すればよい。
⚪︎悔い改めるのは救われていない証拠であるから、悔い改めるクリスチャンは地獄へ行く。
⚪︎自分たちは救われているので悔い改める必要はなく、罪を犯してもすべて許される・・・・・殺人など、どんな罪を犯しても天国へ行けるとしています。
なるほど、このような教えをもっていれば、職務を放棄して304人を見殺しにしてもかまわないわけです。看板も偽りですが、その教えはまったく聖書に反しています。どうしてそうなのかを、今日の聖書箇所から見て行きましょう。

義としてくださるのは、ただ神によってのみ
  本日の聖書箇所で、このテトスはテモテとともに、パウロの片腕の一人でした。パウロはテトスを時にはクレタに残して残務整理をさせたり、ふたたびそばに呼ぶために代理の者を送ったりしています。若いテモテに比べ、おそらくパウロが最も信頼していた片腕でした。テトスに対してはテモテのように教え諭すのではなく、確認するような内容であるのも、それを裏付けます。特にこの5節において「義」と認められるのは行いによらず、ただ神のあわれみ(愛)による書いてあります。自分で自分を義とするなどとは、神を畏れぬ高慢であります。それだけではなく聖書は私たち一人一人に聖霊のバプテスマと新生、悔い改める謙遜を、聖霊によって与えてくださいます。これは私たちを真に神の国の世嗣としてくださるためなのです。自分の力ではなく、神のあわれみという愛が、聖霊を通して注いでくださるのです。ですから「自分を義人だ」告白すれば良いなどとは、とんでもない誤りですし、特に「悔い改めるのは救われていいない証拠だ」いうのは、聖書も神も何もわかっていないことを自ら暴露していることを明らかにしましょう。

真のクリスチャンには守るべき自分と言うものがない
 真のクリスチャンというものは、再々悔い改めをします。ここが真の神を知らない人にとっては理解できないところです。私も三十年、普通の正統的なプロテスタント教会員として歩んでいても、実のところよくわからない、つまりあまり悔い改めの必要を感じていなかったという経験があります。

 その理由には、実際の神を体験していないので、「神の聖さがわかっていない」という点があります。神のあわれみによって、神ご自身が触れてくださった者には、いかに神が聖であり、自分が汚辱と罪にまみれているのかが対比的にわかります。イエス様のたとえ話に、畑で宝を見つけた者は、全財産を売り払ってでもその畑を買い取るという話しがあります。神を体験しその聖に触れたならば、つまり聖霊のバプテスマや新生した人というものは、これまでの自分の価値観がまったく変わってしまいます。塵芥(ちりあくた)のごとく、それまで後生大事に思っていたもの一切が色あせて価値を失い、代わってそれを神に見出すのです。クリスチャンには守るべき自分、プライドというものがなくなります。謙遜になるとは、このことを指します。

 問題はこの点であり、次に明らかになるのは、このような醜い肉の自分を十字架にかかってまで愛してくださった神への「愛の応答」です。よくクリスチャンが証ししたりブログにおいては、過去の自分の恥ずかしい罪や失敗を喜んで述べていますが、別にサディスティックになっているわけではありません。ただ、ほむべき神の栄光を明らかにしているだけなのです。ひたすら神を恋い焦がれて待ち望むようになり、求めるようになります。その臨在にあっては、圧倒的な神の聖さの前に、ただ己を悔い改めるしかありません。栄光は神のもの、私たちはただひれ伏して神を拝し頌(たた)えるのです。

 悔い改めないクリスチャンは、自分を義としているわけで謙遜もなく、神のあわれみの内に留まってはいません。悔い改め続けることは、神の前にある者にとってふさわしいことであり、またそれゆえ、神が私たちを愛してくださるのです。真に神を知る者、その恵みにあずかる者は、悔い改めることの絶大な恵み・・・‥子として神の国を相続できることを知っているのです。ましてそれを「地獄に行く」などとうそぶく方こそ、本当にお気の毒な人なのです。さあ、神に心から悔い改められる恵みを神様に感謝しましょう。

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