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2014年6月

2014年6月29日 (日)

白い衣のひとたち

黙示録 7章13~14
 ふつう血で洗えば白くなるどころか、血の色に染まります。ですからこれはヘブル書の12:24に「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」とあるように、耐えられないほどの患難にも戦い通した人々のことです。彼らは殉教こそしませんでしたが、信仰にいのちを懸けた人々なのです。
 むろん殉教者たちにはすでに白い衣が与えられています(黙6:9)。白い衣とは、罪が完全にきよめられ聖とされたことであり、同時にそれは神の国人として認定されていることを示します。今の私たちにとっても目標であり、勝利の栄冠そのものです。  

 さて黙示録には読んでいくための土台があります。恐ろしい天変地異、人類の1/4と1/3、計半分が死んでいくという大いなる審きの時代とは、一般的には恐怖の時代であるからです。しかしこれは審かれる側の場合であって、神を信じる者にとっては待ち焦がれた日、勝利の時であります。ただしクリスチャンであっても、救い、携挙の確信がない場合は不安や恐れを感じることでしょう。揺るぎない信仰、救いの確信があった上での説き明かしが黙示録なのです。

 さて七つの封印が解かれると、最初に白い馬が出てきます。これはイエス・キリストであると言われています。つまりこれはまず結論から説いているようなものであって、この起こっていくあらゆる災いは、キリストの勝利として終わることを告げているわけです。そして赤い馬=戦争、黒い馬=飢饉、青ざめた馬と、あらゆる多くの死が告知されて行くのです。これらは悲惨なことであることは確かですが、人間が高慢に気づき、悔い改め神に救いを求める機会として見るなら、それはすばらしい後の雨、恵みの時ともなります。  

 第五の封印で殉教者たちの叫びと白い衣の賦与があり、第六の封印でヨエル預言の成就である天体を含む天変地異が起こります。これらはおそらく、大リバイバルの時代の背景として起こる事柄だと私は受けとめています。

 やがて第七の封印から七つのラッパが鳴る、さらに非常な困難な時代となっていきます。ここで殉教者だけでなく、「額に神の印を押される」クリスチャンたちや、数え切れぬほどの大勢の群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って御座の前に集まります。これらは確定した神の聖徒たちです。もちろん未だ地上にいる私たちは、この群衆には加わってはおりませんが、携挙の後に共に増し加えられることになるのでしょう。この望みを私は持っているのです。

 殉教者とかこの大勢の群衆にしろ、白い衣を着た人々とは、「大きな患難から抜け出て来た者たち」というのは共通しています。つまり試練困難で己の肉と戦い、「子羊の血」=「キリストの十字架の血潮による罪の赦し」によって罪を完全に捨て、白くされた人々です。それ故今の私たちも、患難なしに白くされることはあり得ません。それがいつなのかはわかりませんが、懲らしめを受けるのは、子とされた印なのです。祝福の患難が来ることを感謝して受けましょう。その先にあるのは携挙という勝利なのです。私たちクリスチャンは第七のラッパが鳴らされたその時、携挙によって主と空中でお会いし、後の迫害からも守られるのです。

2014年6月22日 (日)

神の愛、キリストのあわれみ

ユダ1章20−21節
 初代教会の時代から教会を悩ませ続けてきたのは、ユダヤ人からは割礼に代表される律法主義、異邦人からは十字架と聖霊への敵対でした。しかしもっとも深刻な問題は内側の問題、教会から離れていく人々に対してでした。

 イエス・キリストの神性を否定し、牧師など立てられた指導者を、バラクのように、コラのように批判し聞き従うことができなかったのでした。彼らは利得主義で教会の真理に学ばず、この世の人々に過ぎませんでした。せっかく教会に導かれても、神の愛やキリストのあわれみが伝わらず、永遠のいのちの恵みを得ることができなかった人々のことです。本日のみ言葉、「神の愛、キリストのあわれみ」がわかるなら、その方は確かに永遠のいのちにつながる祝福された人であります。 

 神の愛とは何でしょうか。それは神ご自身に等しい独り子キリストを、人間の罪のために死に渡されたことです。ここに愛があるのです。なぜなら、キリストは天地万物の創造以前から存在された、聖なる存在であり、全宇宙や被造物である人類よりはるかに優ったお方です。たとえ人が何千億人、何兆人居ようとも、さらに価値あるお方なのです。キリストが言った「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」の言葉は、信じない者から見れば呪いの言葉でありましょうが、信じる者にとっては神の愛、キリストお一人に全人類の罪を負わせられたという、神の愛の極めつけの言葉、まさに希望と喜び、愛そのものの言葉なのです。

 キリストのあわれみとは何でしょうか。それは自分がどんなにあわれまれなければならない存在であるかという、罪の深い自覚のことです。どんなにささいなものでも自分に義があってはなりません。肉が完全に死ぬような経験、自分がどんなに救いがたいあわれな存在であるかがわかるということ、これが新しく生まれる土台です。それは己の力でできることではなく、ヨブやヨセフ、ダビデのように、神は愛された者を例外なく懲らしめられましたが、その目的は肉を捧げさせ、砕けた魂、神のあわれみによって生きる霊の獲得でした。みなさん、神のあわれみによって生きる恵みは、懲らしめなしにはうまれないものなのです。ですから試練や困難は、その先にあるものを見て、私たちは喜びの感謝を捧げるのであります。

 今試練、困難にある人々よ、喜びなさい、あなたがたは愛されている。あわれみを受けることができるのです。

2014年6月15日 (日)

きよめ

Ⅰヨハネ 1章9節

 キリストはわずかな戒めというか、命令しか語られませんでした。その一つは弟子たちの足を洗うという範を示されたように、ご自分に倣って仕える者になりなさいということです。この世では地位や能力が高く、権力がある者が上座につくのですが、教会では逆に貧しい者、弱い者こそ、助けられ、上座に引き上げられなければなりません。しかしこれは上に立つ者の姿勢として語られたことであって、神によって立てられた牧師の指導とか教会の秩序を否定するものではありません。

☆キリストの戒め
 次に「互いに愛し合いなさい」という最も重要な勧め、戒めがあります。従来一番大切な命令は「地の果てにまで福音を」だったと思われますが、聖書をよく読むとそうではなく、「愛」の第一段階の実践である「互いに愛し合いなさい」が一番だと気づきます。確かに教会内で兄弟を嫌い憎むならば、その人にとって教会はもはや平安な場ではありません。福音を他者に語る前に、自分自身へ福音を再確認し、悔い改め、赦され、きよめられる必要があるでしょう。この「きよめ」が本日のテーマです。

 かく言う私は、ほんとうに罪深く、愛に欠けて乏しい者です。十字架のキリストの愛からほど遠いのが真実です。絶望的な差であります。ではどうしたら私たちは、キリストに倣い、キリストの戒めを守れるようになるのでしょうか。

 その唯一、一筋の道が、自分に希望を見出すので無く、ただ神にのみ希望を見出すということです。自分は愛がないこと、できないことを認め、主であるご聖霊様に私を通して働いていただく、ということです。ですから万が一、間違って私に「(いくばくかの)愛がある」と人が評してくれるのなら、それはすべて神からのものです。よろこんで神に栄光を帰すのです。

 私のよく知っているあるクリスチャンは、自分の証しやブログで、困難や失敗談、恥をかいたことなどをあからさまに公表します。その終わりにはいつも悔い改めさせられ、学んだことなどから、神様を褒め称え喜ぶことばでいつも終わります。確かにすべてが益に変えられているその行いには、神の栄光があることがわかります。

 ふつうは結果が良くなってから、うまく物事が運んでから、ようやく証ししたりするのですが、このクリスチャンは悪いことを、その悪いただ中で神を褒め称え、感謝して行くのです。私も、過去自分が辛かった経験、最悪な状況の中で深く罪を知らされ、罪を告白し、その悔い改めと神のあわれみをしばしば語ります。

 敬語の中に謙譲語という日本語独特のものがありますが、神様を本当に褒め称えたい時には、自分がへりくだるということがふさわしいと思います。その時神様は私たちをあわれまれ、慰めてくださり、赦してくださるのです。神が告白した罪を赦してくださる、その時こそ私たち人間が「きよく」された時だと私は感じます。確かに本日の箇所は真実であり、恵みと平安を実感するのです。

 こっそり一人で告白しても赦されるでしょう。しかし神に栄光を帰すために、己をむなしくし、罪を言い表すなら、どれほど神が喜ばれるかわかりません。それは聖霊が豊かにその場に注いでくださり、多くの人を同じように、赦しと恵みに導くからです。

2014年6月 8日 (日)

希望について説明を

1ペテロ3章15節

 私たち神を信じるクリスチャンには、この世での先に大きな希望があり、それを命以上に価値のあるものと思っています。世の何ものも奪うことのできない希望です。聖書(1ペテロ3:15)ではいつでも、誰にでもそれが証しできるようにと用意をしておくようにとあります。

 このペテロの勧めはペテロ自身も殉教したと言われるネロ帝による大迫害が始まる直前のものです。つまり歴史的な大迫害の始まる前から、基本的にクリスチャンは不可解な人々であって、多くの人々からの攻撃があったのでしょう。現在においてもクリスチャンは酒、ギャンブル、たばこをたしなまないばかりか、品行方正でどんな小さな嘘も言うことができないのですから、不思議に思われ、その「説明」が求められる事が多々あります。さらに日曜日に礼拝を捧げ、特にどんな最悪な状況下でも喜んで感謝するなど、理解不能な行いは絶好の証しの機会でもあります。説明とか証しなどの備えを怠りなく準備しておくことは大切でしょう。

 では聖書を手引きにし、証しの土台となるものを読んでまいりましょう。(1ペテロ 1:3)に「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて生ける望みを持つようにしてくださいました」とあり、(1ペテロ 1:14節)には「朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐように」と、私たちに「天に貯えられている」ものがあると言われています。

 ここで言う「新しく生まれさせて」「天に貯えられている」とは何でしょうか?「新しく生まれ」とは悔い改め、別人間としてキリストにあっての新生を意味します。この世での生を終え死んだクリスチャンは、神の国においてはどのようにして神に仕えるのでしょうか?

 金はなかなか朽ちるものではありませんが、それでも時には朽ちて行く「金」よりも尊い、「天に貯えられている」ものとはなんでしょうか?それは新しい魂・霊にふさわしい、新しい体、み霊の体です。これは一般に信じられている、実体なき幽霊とはまったく異なるものです。先例があります。

 それは十字架の死からよみがえられた、キリストの体です。疑い深い弟子のトマスは、本当にキリストなのかと、指を釘の傷の穴の中にまで入れて確かめようとしました。また弟子たちの面前で焼いた魚を食べてもみられました(ルカ24:43)。これらは幽霊ではできないことです。しかしドアを通り抜け(ヨハネ20:26)られたり、オリーブ山から天に引き上げられたり(使徒1:9)するなど、今の血肉の体とはまったく異なるものであります。クリスチャンは、この滅ぶことのないみ霊の体となって、永遠の神の御前で礼拝し、仕えることが究極の希望です。ですからクリスチャンの死は、希望にあふれたいわば天への凱旋であります。

 これに対し、神を信じないで死んだ人々には、希望がありません。世には「お迎えの来たとき」と言う長寿を願う言葉があります。「米寿(88)で御迎えの来たときは、もう少し米を食べてからと云え!」など・・・この世に執着し、生き続けることしか希望がないのです。この人々の死後は、永遠の苦しみを受け続けなければならないのです。つまり考えるだけでも恐い世界なのです。

 ハレルヤ!私たちはできるだけ多くの人に、この希望について説明し、一人でも多く救われるよう証しを怠りなく備えましょう。世に生かされている使命でもあるのです。

2014年6月 1日 (日)

信仰とは

ヘブル11章1節
 この一週間の聖書通読では、ヘブル書からヤコブ書にまたがっており、右表のような混乱を感じられた方も多いかと思います。義とされるとは「罪なき者」とされることであり、審きに合格し神の国の一員になれることを意味します。Photo

   そのためにはパウロは律法の行いではなく信仰だといい、ヤコブは行いが重要だと言っているのです。ここで注意しなければならないことは、パウロは律法を守りさえすればよかれとする形式的なことに対して信仰を言ったのであり、ガラテヤ書では御霊によって「良い実を結ぶ」と教えており、実を結ばない信仰は真の信仰ではないことを諭しています。ヤコブも信仰を否定したのではなく、真の信仰は口先だけのことではなく、必ず行いという実が伴ってくるはずであると言っているのです。つまりパウロは信仰の教理面を説き、ヤコブは実際の結果面を説いているわけで、これは一つのコインの表裏を言っているに過ぎないのです。

 さて私たちはこのような信仰をどのようにして得るのでしょうか?それは試練や困難という訓練を通してであります。聖書で信仰の父アブラハムからのすべての人物について当てはまることですが、例外なくこの道を通されています。そしてそれは、今神に愛されている私たちにも、です。ですから試練の中にある人は喜んでください、あなたは神に実の子とされ、愛されているのです。

 ヘブル書では「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない(13:5)」と語られています。たとえ私たちが試練の中で神を疑ったり、迷ったりしたとしても、神は決して見捨てることなく、必ず助けてくださるのです。そうと知れば結果は必ず人の想像を遥かに超えた恵みになるのですから、私たちは次のように告白しようではありませんか?「主は私の助け手です。私は(どんな困難や災いが襲ってきたとしても)恐れません。人間が、私に対して何ができましょう」と。

 みなさん、まさにこれこそ信仰の土台なのです。聖くなければ、だれも神を見ることはできません。試練に耐え、耐え抜いて義とされ、約束された「いのちの冠」を受けましょう。

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