信仰とは
† ヘブル11章1節
この一週間の聖書通読では、ヘブル書からヤコブ書にまたがっており、右表のような混乱を感じられた方も多いかと思います。義とされるとは「罪なき者」とされることであり、審きに合格し神の国の一員になれることを意味します。
そのためにはパウロは律法の行いではなく信仰だといい、ヤコブは行いが重要だと言っているのです。ここで注意しなければならないことは、パウロは律法を守りさえすればよかれとする形式的なことに対して信仰を言ったのであり、ガラテヤ書では御霊によって「良い実を結ぶ」と教えており、実を結ばない信仰は真の信仰ではないことを諭しています。ヤコブも信仰を否定したのではなく、真の信仰は口先だけのことではなく、必ず行いという実が伴ってくるはずであると言っているのです。つまりパウロは信仰の教理面を説き、ヤコブは実際の結果面を説いているわけで、これは一つのコインの表裏を言っているに過ぎないのです。
さて私たちはこのような信仰をどのようにして得るのでしょうか?それは試練や困難という訓練を通してであります。聖書で信仰の父アブラハムからのすべての人物について当てはまることですが、例外なくこの道を通されています。そしてそれは、今神に愛されている私たちにも、です。ですから試練の中にある人は喜んでください、あなたは神に実の子とされ、愛されているのです。
ヘブル書では「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない(13:5)」と語られています。たとえ私たちが試練の中で神を疑ったり、迷ったりしたとしても、神は決して見捨てることなく、必ず助けてくださるのです。そうと知れば結果は必ず人の想像を遥かに超えた恵みになるのですから、私たちは次のように告白しようではありませんか?「主は私の助け手です。私は(どんな困難や災いが襲ってきたとしても)恐れません。人間が、私に対して何ができましょう」と。
みなさん、まさにこれこそ信仰の土台なのです。聖くなければ、だれも神を見ることはできません。試練に耐え、耐え抜いて義とされ、約束された「いのちの冠」を受けましょう。
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