フォト
2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

« 希望について説明を | トップページ | 神の愛、キリストのあわれみ »

2014年6月15日 (日)

きよめ

Ⅰヨハネ 1章9節

 キリストはわずかな戒めというか、命令しか語られませんでした。その一つは弟子たちの足を洗うという範を示されたように、ご自分に倣って仕える者になりなさいということです。この世では地位や能力が高く、権力がある者が上座につくのですが、教会では逆に貧しい者、弱い者こそ、助けられ、上座に引き上げられなければなりません。しかしこれは上に立つ者の姿勢として語られたことであって、神によって立てられた牧師の指導とか教会の秩序を否定するものではありません。

☆キリストの戒め
 次に「互いに愛し合いなさい」という最も重要な勧め、戒めがあります。従来一番大切な命令は「地の果てにまで福音を」だったと思われますが、聖書をよく読むとそうではなく、「愛」の第一段階の実践である「互いに愛し合いなさい」が一番だと気づきます。確かに教会内で兄弟を嫌い憎むならば、その人にとって教会はもはや平安な場ではありません。福音を他者に語る前に、自分自身へ福音を再確認し、悔い改め、赦され、きよめられる必要があるでしょう。この「きよめ」が本日のテーマです。

 かく言う私は、ほんとうに罪深く、愛に欠けて乏しい者です。十字架のキリストの愛からほど遠いのが真実です。絶望的な差であります。ではどうしたら私たちは、キリストに倣い、キリストの戒めを守れるようになるのでしょうか。

 その唯一、一筋の道が、自分に希望を見出すので無く、ただ神にのみ希望を見出すということです。自分は愛がないこと、できないことを認め、主であるご聖霊様に私を通して働いていただく、ということです。ですから万が一、間違って私に「(いくばくかの)愛がある」と人が評してくれるのなら、それはすべて神からのものです。よろこんで神に栄光を帰すのです。

 私のよく知っているあるクリスチャンは、自分の証しやブログで、困難や失敗談、恥をかいたことなどをあからさまに公表します。その終わりにはいつも悔い改めさせられ、学んだことなどから、神様を褒め称え喜ぶことばでいつも終わります。確かにすべてが益に変えられているその行いには、神の栄光があることがわかります。

 ふつうは結果が良くなってから、うまく物事が運んでから、ようやく証ししたりするのですが、このクリスチャンは悪いことを、その悪いただ中で神を褒め称え、感謝して行くのです。私も、過去自分が辛かった経験、最悪な状況の中で深く罪を知らされ、罪を告白し、その悔い改めと神のあわれみをしばしば語ります。

 敬語の中に謙譲語という日本語独特のものがありますが、神様を本当に褒め称えたい時には、自分がへりくだるということがふさわしいと思います。その時神様は私たちをあわれまれ、慰めてくださり、赦してくださるのです。神が告白した罪を赦してくださる、その時こそ私たち人間が「きよく」された時だと私は感じます。確かに本日の箇所は真実であり、恵みと平安を実感するのです。

 こっそり一人で告白しても赦されるでしょう。しかし神に栄光を帰すために、己をむなしくし、罪を言い表すなら、どれほど神が喜ばれるかわかりません。それは聖霊が豊かにその場に注いでくださり、多くの人を同じように、赦しと恵みに導くからです。

« 希望について説明を | トップページ | 神の愛、キリストのあわれみ »

神のみこころ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: きよめ:

« 希望について説明を | トップページ | 神の愛、キリストのあわれみ »