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2014年7月

2014年7月27日 (日)

わたしの名を否まなかった

ヨハネの黙示録 3章8節

今夏の白馬キャンプの恵みを、メッセージで取り次がせていただきます。
 今日は終末全体を図示させた黙示録における七つの教会の中で、唯一「携挙される教会」があり、それはフィラデルフィアの教会です。それは「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守る(黙示3:10)」と明記してあるからです。この全世界に来る試練とはキリストの地上再臨までの七年にわたる患難時代ですが、その中でもサタンが地に落とされる後半の3年半の大患難時代は、ただ「七つの臼の審き」しかない時代であり、クリスチャンをして獣を拝ませ、刻印を押させ、買うことも売ることもできないようにさせようとする時代です。ですから真のクリスチャンを「携挙」によって「大患難という試練」から守ると書かれてあるのです。

 大事なことは、これが教会単位で起こるということです。つまり教会の信仰がポイントであり、その御体にしっかりと属していることが大切なのです。当然私たちの教会は、フィラデルフィア教会の信仰に立っている教会なのですが・・・・。Photo

 ではフィラデルフィアの教会の信仰とは、どういうものであるのでしょうか?「ダビデの鍵」とはダビデの町、すなわちエルサレムのことであり、ここでは天のエルサレムのことを指しています。そして決定的に重要なことは「わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」と言うことなのです。

 これはどういうことかと申しますと、患難時代前半の三年半においても、結局人類の1/2が死ぬ驚くべき時代ですが、この時代、クリスチャンの迫害、殉教も相当許されていきます。今すでにアメリカなどでは、同性愛者の結婚式の司式を断ったり、同性愛について聖書に忠実な見解を述べると、「少数者の権利迫害者」として迫害を受ける状況が生じてきています。これからさらにこの状況が悪化し、ネロの時代のような殉教への道へと続いて行くものと思われます。しかし私たちは堅く立って、神のことばである聖書に従い、教えを守り、この国でかつて行われた「踏み絵」のように、命に代えてキリスト名を否まないことが、携挙の守りを受けることになっていくのです。

 携挙とは実際に殉教はしませんでしたが、殉教者と同じく、すでに己の肉は死に、神に捧げてしまっている者への守りなのです。殉教が恐ろしいし、自信が無いから携挙でと考えないでください。試しはすべてのクリスチャンに許されるのです。高木清右衛門のように、ただ神のあわれみを求め、祈っていく、神の助けによってのみ、この試練に勝利する者とされることを忘れてはなりません。  

2014年7月20日 (日)

七つの求めの祈り

マタイ 7章12節

 マタイ福音書は神の民であるユダヤ人を対象にしています。ということは神を信じ、律法を日常的に学んでいる人々への福音書であって、今日のクリスチャンにも相当あてはまるところがあるものです。特に今週の聖書箇所読んでいきますと、5章で天の御国とはどういうものかを明らかにし、6、7章でその御国へ行けるよう、わたしたちが心すべきことが具体的に述べられております。

 そこで私なりに理解した「心すべきこと」の七つを図にしてみました。題して「御国に行けるための(求めの)祈り」でSす。なぜ「祈り」としたか?ですが、これら一つでも満足に行える力が私にはないからです。特に6番の「求めなさい」とは、確かに何でも良いのです。が、その段階から「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい」という、最上の<良いもの>を求めるようにイエス様が仰っているように受け取れるのです。それはとどのつまり愛の心であり、<義>とされることであるのです。
 このようなことをふまえ、私たちはこれら七つのことを節に求め、祈ろうではありませんか。ケパ
20140720(日)自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのように マタイ7:12

本日の聖書箇所マタ 7:12 「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」

 マタイ福音書は神の民であるユダヤ人を対象にしています。ということは神を信じ、律法を日常的に学んでいる人々への福音書であって、今日のクリスチャンにも相当あてはまるところがあるものです。特に今週の聖書箇所読んでいきますと、5章で天の御国とはどういうものかを明らかにし、6、7章でその御国へ行けるよう、わたしたちが心すべきことが具体的に述べられております。
 そこで私なりに理解した「心すべきこと」の七つを図にしてみました。題して「御国に行けるための(求めの)祈り」です。なぜ「祈り」としたか?ですが、これら一つでも満足に行える力が私にはないからです。特に6番の「求めなさい」とは、確かに何でも良いのです。が、その段階から「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい」という、最上の<良いもの>を求めるようにイエス様が仰っているように受け取れるのです。それはとどのつまり愛の心であり、<義>とされることであるのです。
 このようなことをふまえ、私たちはこれら七つのことを節に求め、祈ろうではありませんか

2014年7月13日 (日)

ユダにタマルによって

マタイ 1章 2-6 節

 本日からマタイによる福音書に入りましたが、しかしこの第一章、イエス・キリストに至るまでの系図がカタカナで長々と続きます。聖書を学び始めた頃、この系図がなかったらもっと取っ付き易いのに、と思いました。しかし今はこの系図こそ、歴史を通して神のご性質が読み取れる宝物であることがわかりました。

 その鍵はここに登場してくる四人の女性にあります。ルカでは系図に女性の名前はありません。マタイだけにあるだけではなく、実に不思議な書き方をしてあるのです。
 「ユダに、タマルによって」「サルモンに、ラハブによって」「ボアズに、ルツによって」と、ここまではわかるのですが最後は「バテシバによって」ではなく、「ダビデに、ウリヤの妻によって」とあるのです。どんなに偉大な族長や王であろうとも、どんなに彼らに不都合なことであろうとも、聖書は隠すどころか、むしろあらわにして事実を伝えています。そのころからわかるのは、偏り見られることのない神の真実、その義、公平さなのです。その土台には神の愛とあわれみがドドーンと伝わってくるのです。

 ヤコブの子ユダはユダ族の祖であり、イスラエル人=ユダヤ人と誰もが思うほどに祝福を受けた人物でした。現地カナン人の女性シュアと結婚したユダに三人の男の子が生まれました。その内の長男エルがカナン人の女性「タマル」と結婚しました。しかしエルは神を怒らせて死に、次いでユダは律法通り、次男オナンをタマルに入らせたのですが、地に漏らしたので死にました。そして三男シェラがまだ未成人だったことを良いことに、タマルを里に帰らせて喪に服させたまま、三男が成人しても再びタマルの所に入らせようとはしなかったのです。

 やがてユダの奥さんであるシュアが死に、その喪の期間を終えたユダは再び仕事を始めようとしますが、仕事に行く直前、子ヤギを報酬に一人の遊女を買います。しかしこの遊女、不思議なことに後になっていくら探しても二度と見つけることができず、報酬は渡せずじまいでした。さて三ヶ月後、大事件が起こります。それは嫁のタマルが「売春をして、子どもまでできている」という知らせでした。ユダは怒って「焼き殺してしまえ」と言います。

 さて次はユダが赤っ恥をかく番でした。タマルの子はユダの子である徴、子ヤギと引き換えにする品々を差し出したからです。これはユダが律法を守らず、タマルに子を与えなかったことが原因だったからです。ユダはイエス・キリストにつながる最重要な人物ですが、聖書は「タマルという長男の嫁によって…」とこのことを隠さず明らかにしているのです。

 この真実を隠さずに、は残り三人の女性すべてに当てはまります。ルツはモアブ人で寡婦でしたし、ラハブはなんと遊女屋の女将でした。四人目のバテシバに至っては、ダビデの部下ヘテ人ウリヤの妻であり、間接的にウリヤを殺すことまでして姦淫の罪を隠そうとしました。古来専制君主にあっては、特に問題ではなかったかもしれませんが、律法を重んじるイスラエルでは明白な律法違反です。聖書はその事実を「ウリヤ(という部下)の妻によって」と明らかにしているのです。

 「不都合な真実」という言葉がありますが、この世的な表現をすれば、自分たちの教祖の出自における「不都合な真実」を余すところなく述べている、これは他に例がない、すごいことです。何がすごいか?そのような高度な不都合の受容がでしょうか?いえ、そのようなレベルでなく、全人類の救い主は人間の罪や愚かさをしっかりと継承されながら、まさにその流れの中から真実、救いをあらわしてくださったという事実に対してです。

 神の愛はこの四人の女性を通して、その苦難が信仰によって耐えて報われることを証し、王や族長という偉大な男たちを時には恥ずかしめ、悔い改めさせられました。神の前には男も女もなく、ただ信仰のみを神は見ておられることがわかるのです。  

2014年7月 6日 (日)

第七のラッパが鳴る時

ヨハネの黙示録 11:15−19
 いよいよ現代は黙示録の時代に入口に進みつつあります。どんな本日の題の第七のラッパが、どんなタイミングで鳴るのかについて、図で説明をします。この時、私たちは携挙されるのですから。七つの封印については先週ふれました。巻物の七つの封印すべてが解かれると巻物は開き、次の段階へと終末は進んで行きます。

 第七のラッパがなる前後にサタンは天から落とされ、地上での残り少ない時を知ってサタンが暴れ狂う後半の大患難時代が始まります。つまり七つ目のラッパが鳴るということは、患難時代を二つに分ける大きな節目となります。
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 さてこの時代は信じない者にとっては恐怖と死の裁きの時ですが、信じる者にとっては証と待ち望んだ酬いの時なのです。クリスチャンにとってはなぜそうなのか?それは「肉において死に、神の霊によって生き」ていることが明らかにされる時だからです。カンボジアの首都プノンペンがポルポトによって滅ぼされる直前、大リバイバルが起きました。死よりも価値のある霊の命が注がれたのです。  生は必ず滅びますが、それは永遠の命、肉にまさる霊のいのちを見出だすためにあるのです。命の希望を失ったときこそ、チャンスなのです。同じことが終末の世界を覆う患難時代にも起こるのです。
 聖書に「奥義」ということばが幾度も出てきます。狭義の意味で奥義とは携挙を意味します(黙11:6-7,1コリ15:51−53)。第七のラッパが鳴って、後半の大患難の始まる直前に地上から引き上げられ、空中で主とお会いするクリスチャンがいる一方、地上に残されたクリスチャンがいます。この方たちにとっては、もはや殉教するか棄教するかしか道は残されていないことでしょう。

 この携挙の分岐点は「肉において死んでいたか」です。心の中心に聖霊の主がおられ、聞き従っているクリスチャンにあっては、再び肉において死ぬ必要はないので携挙されます。逆に残されたクリスチャンは、もう一度肉において死ぬチャンス、試しが与えられたと言うことになります。みなさん、これは明白な聖書のメッセージです。アブラハムからヨセフ、モーセ、ダビデに至まで、すべての信仰者は例外なくこの試しを通らされました。ただ肉において死ぬという力は、人間にはありませんから、恐れることなく心からそう願い、祈るということが決定的に重要です。神は私たちのすべてをご存知であり、最前の恵みを与えてくださるのです。これを固く信じること、これをすなわち信仰といいます。終末への備えの土台は、この切なる祈りです。アーメンでしょうか?

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