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2014年7月13日 (日)

ユダにタマルによって

マタイ 1章 2-6 節

 本日からマタイによる福音書に入りましたが、しかしこの第一章、イエス・キリストに至るまでの系図がカタカナで長々と続きます。聖書を学び始めた頃、この系図がなかったらもっと取っ付き易いのに、と思いました。しかし今はこの系図こそ、歴史を通して神のご性質が読み取れる宝物であることがわかりました。

 その鍵はここに登場してくる四人の女性にあります。ルカでは系図に女性の名前はありません。マタイだけにあるだけではなく、実に不思議な書き方をしてあるのです。
 「ユダに、タマルによって」「サルモンに、ラハブによって」「ボアズに、ルツによって」と、ここまではわかるのですが最後は「バテシバによって」ではなく、「ダビデに、ウリヤの妻によって」とあるのです。どんなに偉大な族長や王であろうとも、どんなに彼らに不都合なことであろうとも、聖書は隠すどころか、むしろあらわにして事実を伝えています。そのころからわかるのは、偏り見られることのない神の真実、その義、公平さなのです。その土台には神の愛とあわれみがドドーンと伝わってくるのです。

 ヤコブの子ユダはユダ族の祖であり、イスラエル人=ユダヤ人と誰もが思うほどに祝福を受けた人物でした。現地カナン人の女性シュアと結婚したユダに三人の男の子が生まれました。その内の長男エルがカナン人の女性「タマル」と結婚しました。しかしエルは神を怒らせて死に、次いでユダは律法通り、次男オナンをタマルに入らせたのですが、地に漏らしたので死にました。そして三男シェラがまだ未成人だったことを良いことに、タマルを里に帰らせて喪に服させたまま、三男が成人しても再びタマルの所に入らせようとはしなかったのです。

 やがてユダの奥さんであるシュアが死に、その喪の期間を終えたユダは再び仕事を始めようとしますが、仕事に行く直前、子ヤギを報酬に一人の遊女を買います。しかしこの遊女、不思議なことに後になっていくら探しても二度と見つけることができず、報酬は渡せずじまいでした。さて三ヶ月後、大事件が起こります。それは嫁のタマルが「売春をして、子どもまでできている」という知らせでした。ユダは怒って「焼き殺してしまえ」と言います。

 さて次はユダが赤っ恥をかく番でした。タマルの子はユダの子である徴、子ヤギと引き換えにする品々を差し出したからです。これはユダが律法を守らず、タマルに子を与えなかったことが原因だったからです。ユダはイエス・キリストにつながる最重要な人物ですが、聖書は「タマルという長男の嫁によって…」とこのことを隠さず明らかにしているのです。

 この真実を隠さずに、は残り三人の女性すべてに当てはまります。ルツはモアブ人で寡婦でしたし、ラハブはなんと遊女屋の女将でした。四人目のバテシバに至っては、ダビデの部下ヘテ人ウリヤの妻であり、間接的にウリヤを殺すことまでして姦淫の罪を隠そうとしました。古来専制君主にあっては、特に問題ではなかったかもしれませんが、律法を重んじるイスラエルでは明白な律法違反です。聖書はその事実を「ウリヤ(という部下)の妻によって」と明らかにしているのです。

 「不都合な真実」という言葉がありますが、この世的な表現をすれば、自分たちの教祖の出自における「不都合な真実」を余すところなく述べている、これは他に例がない、すごいことです。何がすごいか?そのような高度な不都合の受容がでしょうか?いえ、そのようなレベルでなく、全人類の救い主は人間の罪や愚かさをしっかりと継承されながら、まさにその流れの中から真実、救いをあらわしてくださったという事実に対してです。

 神の愛はこの四人の女性を通して、その苦難が信仰によって耐えて報われることを証し、王や族長という偉大な男たちを時には恥ずかしめ、悔い改めさせられました。神の前には男も女もなく、ただ信仰のみを神は見ておられることがわかるのです。  

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