第七のラッパが鳴る時
✝ ヨハネの黙示録 11:15−19
いよいよ現代は黙示録の時代に入口に進みつつあります。どんな本日の題の第七のラッパが、どんなタイミングで鳴るのかについて、図で説明をします。この時、私たちは携挙されるのですから。七つの封印については先週ふれました。巻物の七つの封印すべてが解かれると巻物は開き、次の段階へと終末は進んで行きます。
第七のラッパがなる前後にサタンは天から落とされ、地上での残り少ない時を知ってサタンが暴れ狂う後半の大患難時代が始まります。つまり七つ目のラッパが鳴るということは、患難時代を二つに分ける大きな節目となります。
さてこの時代は信じない者にとっては恐怖と死の裁きの時ですが、信じる者にとっては証と待ち望んだ酬いの時なのです。クリスチャンにとってはなぜそうなのか?それは「肉において死に、神の霊によって生き」ていることが明らかにされる時だからです。カンボジアの首都プノンペンがポルポトによって滅ぼされる直前、大リバイバルが起きました。死よりも価値のある霊の命が注がれたのです。 生は必ず滅びますが、それは永遠の命、肉にまさる霊のいのちを見出だすためにあるのです。命の希望を失ったときこそ、チャンスなのです。同じことが終末の世界を覆う患難時代にも起こるのです。
聖書に「奥義」ということばが幾度も出てきます。狭義の意味で奥義とは携挙を意味します(黙11:6-7,1コリ15:51−53)。第七のラッパが鳴って、後半の大患難の始まる直前に地上から引き上げられ、空中で主とお会いするクリスチャンがいる一方、地上に残されたクリスチャンがいます。この方たちにとっては、もはや殉教するか棄教するかしか道は残されていないことでしょう。
この携挙の分岐点は「肉において死んでいたか」です。心の中心に聖霊の主がおられ、聞き従っているクリスチャンにあっては、再び肉において死ぬ必要はないので携挙されます。逆に残されたクリスチャンは、もう一度肉において死ぬチャンス、試しが与えられたと言うことになります。みなさん、これは明白な聖書のメッセージです。アブラハムからヨセフ、モーセ、ダビデに至まで、すべての信仰者は例外なくこの試しを通らされました。ただ肉において死ぬという力は、人間にはありませんから、恐れることなく心からそう願い、祈るということが決定的に重要です。神は私たちのすべてをご存知であり、最前の恵みを与えてくださるのです。これを固く信じること、これをすなわち信仰といいます。終末への備えの土台は、この切なる祈りです。アーメンでしょうか?
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