いちじくの木のたとえ
✝ マタイの福音書 21章18~19節
福音書のイエス様の記事の中で、「あれれ?」と疑問に思える箇所の一つです。季節外れで実をつけていないいちじくの木を、「実がない」と呪って枯らされたのです。神学者でもあった密林の聖者シュバイツアーは、この箇所を「数日後に迫った十字架刑、その死の恐怖で正常な判断ができなかった」のだと、イエス様の神的権威を否定しました。他にも、空腹なあまり頭に来て呪ったのだとか、このような見方が多いようです。
しかしイエスを神の子と信じるならば、死の恐れとか空腹なあまり、何の落ち度もない木を呪って枯らすなどとは<あり得ないこと>ではないでしょうか。
聖書で「初なりのいちじく」ということばを、
イスラエルでは「バーグ」と呼ぶそうです。ふつうのいちじくの実は「ティエナ」です。この特別な名前「バーグ」に秘密がありました。ティエナとしての通常のいちじくは、なんと年に5回も実をつけるのですが、バーグは雨期の終わり、過ぎ越しの祭りの時期に絵のような小さな葉と実をつけ、約二ヶ月してティエナの季節になります。バーグは小さく、甘さにも劣るので商品価値はありません。したがってバーグは誰でも取って食べて良いものでした。果物の甘さに半年も飢えていたイスラエルの人々にとって、バーグは待ち遠しかった果物だったのです。
こうなると、イエス様が近づかれたのは、バーグを取りにであったことがわかりますし、いちじく(=ティエナ)のなる季節ではなかった(マルコ11:13)のも当然です。しかし小さな葉が繁っていてもそこにバーグはありませんでした。バーグを実らせない木というものは、ティエナも実りません。こういう実をつけない木は、場所をふさぐだけなので、ルカ伝13:6-7のように切り倒すのです。それゆえイエス様が枯らされたからと言って、早晩同じ結果であり、問題は生じないことでしょう。イエス様のされたことは、当時の習慣に従ってみればすべて納得の行くものです。シュバイツァーが単に知らなかったというより、いかに人間的な解釈を施したかということが分かるのです。
いちじくの木を枯らされたことは、超自然的な神の奇跡でした。それだけに終わるものではなく、このいちじくの木が、3年半にも及んだぶどう園の主人(神)の努力に酬いず、実を実らせることがなかった・・・・・イスラエルのことを暗示しているのです。つまりこれは、イスラエルの審き預言であり、その成就なのです。
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