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2014年8月

2014年8月31日 (日)

許されること・愛すること

ルカの福音書 7章47節
 この「罪深い女」の話には、「罪を赦す権威」と「赦された程度に対応する愛」が描かれているように見えますが、これらの表面的な分子に対し、分母には「罪をどれほど自覚しているか?」があります。また「愛」と言う言葉が使われていますが、人間的な意味での愛とは異なる愛であることおさえておくべきでしょう。

 パリサイ人と罪深い女、これは対局に属する存在です。一方は社会の指導者層であり尊敬され裕福です。もう一方はもっとも最下層で、貧しく弱く見下げられた立場の女です。また一方はキリストを客として招いておきながら、その礼儀を欠いておりました。しかしもう一方はまったく場違いの、無頼な闖入者でした。その闖入者が一方の欠けた礼儀を見事に補ったのでした。つまり<なみだで足をぬらし、髪の毛でぬぐい、口づけして止まなかったばかりか、この女にとってはどれほど高価であったことでしょう、足に香油まで塗った]]のです。

 この違いは罪の自覚の違いです。罪深い女は己の罪を、少なくともパリサイ人の十倍は自覚していました。それだけでなく、どんなに罪に汚れていてもそれをよしとせず、神に救い、助けを求めたのです。それは女奴隷の仕事である客人の足洗いを引き受けることでした。これに対しキリストは嫌悪の情をあらわすどころか、ご自分の足を女に委ね続けられたのです。キリストの示された愛に女は、感謝の涙を止めることができませんでした。
 私ははじめから涙で濡らし、髪の毛で拭き取ろうと思ってはいなかったと思っています。しかしキリストのされるままにと示されたその愛は、彼女の心を氷解させ、喜びに変え、自分でも驚くほどの溢れる感謝の涙が出し、それを髪の毛で拭き取る行動が自然に出たのだと感じるのです。みなさん、これが愛なのです。滅ぶしかない重い自分の罪、それを赦された感謝は、どこからこんなに涙が出るのかと不思議なほどの溢れる涙であり、女の命とされる髪の毛でホコリだらけの足を喜んで拭くことであり、人前でも熱烈に足にキスをして止まないこと……これが愛なのです。

 「あなたの信仰があなたを救った」、別に信仰を難しく考えたり、自分にできるだろうかと訝(いぶか)しむことはありません。ただ「キリストに助けて」と、キリストに求めさえすれば良いのです。あわれみ深い神は、病める者の為にこの世に来られたのです。問題は罪の大小ではなく、罪を罪としてどう自覚しているかだけなのです。すると神は私を、私たちを受け入れてくださります。こうして神の聖さの前に立つと、その絶大な恵みに人は、自分の罪をおのずと告白せざるを得ませんし、こうしてすべての罪は赦されて私たちはきよくされるのです。ただ己を「聖なる捧げもの」として、神の愛に答えようとするのです。自分を捧げる、これが私たちからの神への愛なのです。

2014年8月24日 (日)

そべてのことを感謝する

テサロニケ人への手紙Ⅰ 5章18節

 神を心から信じる、ということは、殉教覚悟であるということです。そのような信仰は、人の熱心さや努力で成るものではありません。成長させてくださる神の御手があるのです。ですから自分には信仰が無いと、今の自分を見てあきらめることは短慮です。神の最前の計画が自分にあることを信じるべきなのです。

 さてその神の御手ですが、あなたを故(ゆえ)無く襲ってきたかのような試練、困難がこれにあたります。神を信じる者は、すでに所有がサタンから神に移っており、ヨブのように神の許しなしには、何もあなたに手出しすることはできません。ですからこれらは、信じがたいことでしょうが、神が許されたことなのです。なぜでしょうか?

 それは試練や困難なしに、私たちが自分の傲慢さ、自己中心性、愛のなさ、特に罪を深く認識することができないからです。その結果、自分を義とすることが完全破壊され、十字架における神の愛、そのあわれみが腹の底からわかるのです。もはや生きるのは自分のためではなく、神のために生きるようになるのです。信じる者とされたのです。人の親にはできませんが、全能の神だからこそ、つまり最後はあなたを守ることがおできになるので、サタンに許されるのです。

 こうして見ますと、クリスチャンで試練や困難のただ中にある人は、神から愛されているしるしでもあります。その背後には、素晴らしい神の計画の成就があります。ですから悪いことを悪いこととして見たり、自分の考えや希望から現状に失望してしまうことは、これら最前の結果を受け取れないことになってしまいます。クリスチャンが試練、困難を感謝するのは、それが過程においても、結果においてもベストなのです。またもし、過去において感謝できない対応をしてしまったとしても、心から悔い改めれば、神はあわれみ深いので次の機会が与えられ、最終的には祝福を逃すことはないことでしょう。

 「アンと花子」でも、大事な一人息子が夭折しました。私も妻をとり上げられました。不幸なことに見えますが、世で大切なものを失うことで、それ以上に大切なものがわかった———本当に神を信じることができた———のです。福音書の「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」とは、このことか!と理解するのです。確かに全世界、自分のいのちも優る素晴らしい祝福でした。皆さん、すべてを、どんな悪いことであろうとも、感謝です。

2014年8月17日 (日)

【自分を捨てること」は deny 否定すること

ルカの福音書 9章23節

自分を捨てることは容易ではない。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて(口訳:従って)来なさい。」〔ルカ9:23〕
“If anyone desire to come after Me, Cross_32
let him deny himself,
and take up his cross daily, and follow Me.”

 この欽定訳の聖書を見る限り、「自分を捨て」ということばにdeny himself(=自分自身を否定すること)とあります。従うこととは、自身がどれほど罪深いか、それは物心ついたときから将来にわたって、未来永劫に絶望的な状況であることを知ることなのだ。つまり己の真実の姿を見て絶望し、神の前にどんなに卑小であることかを知ること。ひいては自分だけでなく、人類全体がみな等しく、神の救いの計画に与る事しか希望がないことを知る事でもある。

 自分を捨てることは容易ではありません。しかし否定することなら、それは正しく自分を振り返れば即座にわかることです。その上で、キリストはand take up his cross daily, and follow Me(=毎日己の十字架を取り、そしてわたしに従いなさい)と言われた。このことは、神に従うには、つまり信仰には順番があることがわかるのです。

 自分を完全に否定することなく従う時、ユダのように、自分の願う通りに師を試そうとする大きな罪を犯してしまいかねない。自分をよしとする点がいささかも残ってはならない。皆さんもご注意ください。これが真に神に従うことの前提であり、順番なのです。   ハレルヤ!

2014年8月10日 (日)

復活のリジョイス

マタイの福音書 28章8~9節

 この日本は信仰の自由があるのに、神を信じない人がほとんどの国です。このような不信仰の国に対して、「キリストという死者の復活」を語ることが大切だと私は示されています。なぜでしょうか?人々は葬祭とか慰霊の場では死者の霊が生きているようなことを言いますが、それはその場限りのことであって、日常生活では忘れていても何とも思わないないからです。
 そうではない、肉体の命が果てようとも、その先には、単に幽霊の人玉やキョンシーがうようよしているのではない、御霊の体として復活する永遠への希望があるのだということを伝えたいのです。この希望が「キリストの死と復活」なのです。

 さてイエス・キリストが実際に復活したという前段階ですが、①二千年近く前、イエスというユダヤ人の男が、ローマによって十字架処刑されたということ。②しかしイエスは甦ったと弟子たちを中心に語られ広まったこと。③その直後から迫害が起こり、今に至るまでたくさんのクリスチャンが殺されたということ。これらはどの百科事典にも載っている周知の事実です。実はこの②番に関わって、死んだはずの体がどうなったかということが、神を信じない人々への重要なチャレンジ点なのです。
 最も有力な説としては、弟子たちが盗んだという説があります。ステパノから今日に至るまでの殉教者の血は膨大な数に上ります。自作自演した偽りに、弟子たちは命までかけるでしょうか?もし仮に弟子たちが盗んだのであれば、その後の復活はあり得ません。しかし聖書の書かれた当時ですら、かなりの数の人が「直接復活したキリストを見た」証言者として生き残っていたのです。弟子たちの自作自演とするのは、相当無理な説明です。
 次にイエスは一時的に仮死状態になっただけで、墓の中で蘇生したという説もあります。しかしローマには検視役の兵もいて、脚の骨を折ってまで死を確認していました。埋葬も洞窟の中に遺体を置くだけなのですが、瀕死の者がぐるぐる巻きの布を自ら解き、重さ二トンもある石蓋を動かし、ローマの番兵と戦って逃げおおせた……という説に信憑性はありません。

 確かな事実は、イエス・キリストは聖書に書いてある通り、復活したのです。それも二度と死ぬことの無い御霊のからだ第一号として復活されたのです。
 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

 私たちには「わたしを信じる者は、死んでも生きる」という復活の事実を受け入れるか、または拒否するしか選択はありません。多くの人が事実を事実として認め、受け入れてくださるよう祈り、永遠のいのちの証人として喜びの証に努めて参りましょう。

2014年8月 3日 (日)

いちじくの木のたとえ

マタイの福音書 21章18~19節

 福音書のイエス様の記事の中で、「あれれ?」と疑問に思える箇所の一つです。季節外れで実をつけていないいちじくの木を、「実がない」と呪って枯らされたのです。神学者でもあった密林の聖者シュバイツアーは、この箇所を「数日後に迫った十字架刑、その死の恐怖で正常な判断ができなかった」のだと、イエス様の神的権威を否定しました。他にも、空腹なあまり頭に来て呪ったのだとか、このような見方が多いようです。
 しかしイエスを神の子と信じるならば、死の恐れとか空腹なあまり、何の落ち度もない木を呪って枯らすなどとは<あり得ないこと>ではないでしょうか。

 聖書で「初なりのいちじく」ということばを、Photo イスラエルでは「バーグ」と呼ぶそうです。ふつうのいちじくの実は「ティエナ」です。この特別な名前「バーグ」に秘密がありました。ティエナとしての通常のいちじくは、なんと年に5回も実をつけるのですが、バーグは雨期の終わり、過ぎ越しの祭りの時期に絵のような小さな葉と実をつけ、約二ヶ月してティエナの季節になります。バーグは小さく、甘さにも劣るので商品価値はありません。したがってバーグは誰でも取って食べて良いものでした。果物の甘さに半年も飢えていたイスラエルの人々にとって、バーグは待ち遠しかった果物だったのです。

 こうなると、イエス様が近づかれたのは、バーグを取りにであったことがわかりますし、いちじく(=ティエナ)のなる季節ではなかった(マルコ11:13)のも当然です。しかし小さな葉が繁っていてもそこにバーグはありませんでした。バーグを実らせない木というものは、ティエナも実りません。こういう実をつけない木は、場所をふさぐだけなので、ルカ伝13:6-7のように切り倒すのです。それゆえイエス様が枯らされたからと言って、早晩同じ結果であり、問題は生じないことでしょう。イエス様のされたことは、当時の習慣に従ってみればすべて納得の行くものです。シュバイツァーが単に知らなかったというより、いかに人間的な解釈を施したかということが分かるのです。

 いちじくの木を枯らされたことは、超自然的な神の奇跡でした。それだけに終わるものではなく、このいちじくの木が、3年半にも及んだぶどう園の主人(神)の努力に酬いず、実を実らせることがなかった・・・・・イスラエルのことを暗示しているのです。つまりこれは、イスラエルの審き預言であり、その成就なのです。 

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