そべてのことを感謝する
† テサロニケ人への手紙Ⅰ 5章18節
神を心から信じる、ということは、殉教覚悟であるということです。そのような信仰は、人の熱心さや努力で成るものではありません。成長させてくださる神の御手があるのです。ですから自分には信仰が無いと、今の自分を見てあきらめることは短慮です。神の最前の計画が自分にあることを信じるべきなのです。
さてその神の御手ですが、あなたを故(ゆえ)無く襲ってきたかのような試練、困難がこれにあたります。神を信じる者は、すでに所有がサタンから神に移っており、ヨブのように神の許しなしには、何もあなたに手出しすることはできません。ですからこれらは、信じがたいことでしょうが、神が許されたことなのです。なぜでしょうか?
それは試練や困難なしに、私たちが自分の傲慢さ、自己中心性、愛のなさ、特に罪を深く認識することができないからです。その結果、自分を義とすることが完全破壊され、十字架における神の愛、そのあわれみが腹の底からわかるのです。もはや生きるのは自分のためではなく、神のために生きるようになるのです。信じる者とされたのです。人の親にはできませんが、全能の神だからこそ、つまり最後はあなたを守ることがおできになるので、サタンに許されるのです。
こうして見ますと、クリスチャンで試練や困難のただ中にある人は、神から愛されているしるしでもあります。その背後には、素晴らしい神の計画の成就があります。ですから悪いことを悪いこととして見たり、自分の考えや希望から現状に失望してしまうことは、これら最前の結果を受け取れないことになってしまいます。クリスチャンが試練、困難を感謝するのは、それが過程においても、結果においてもベストなのです。またもし、過去において感謝できない対応をしてしまったとしても、心から悔い改めれば、神はあわれみ深いので次の機会が与えられ、最終的には祝福を逃すことはないことでしょう。
「アンと花子」でも、大事な一人息子が夭折しました。私も妻をとり上げられました。不幸なことに見えますが、世で大切なものを失うことで、それ以上に大切なものがわかった———本当に神を信じることができた———のです。福音書の「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」とは、このことか!と理解するのです。確かに全世界、自分のいのちも優る素晴らしい祝福でした。皆さん、すべてを、どんな悪いことであろうとも、感謝です。
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