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2014年9月

2014年9月21日 (日)

御子を信じる者

 ヨハネの福音書 3章 36節  
この天地万物はいったい、何によって存在しているのでしょうか?もはや皆さんは、単なる偶然でも進化論でもないことを確信しておられます。そうです、ヨハネ1:3によると「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」とあり、この方、すなわち神によって一切が造られたのです。

 その神がこの世に、人として来られた時、それはどんな時代かと申しますと、詳細は省きますが、宗教的にはイスラエルの歴史上最も信仰的な、実に良い時代であったと言えます。

 ところが神の子キリストが世に来られても、ごく一部の人しか受け入れなかったのです。特に宗教的な指導者たち(祭司たちや律法学者、パリサイ人)が本来真っ先に気付く立場であったのに、逆に大部分が敵対する存在となりました。彼らは今ある自分たちの経済や権威の方が、民を教え導いたりすることよりも大切だったのです。彼らはバプテスマのヨハネの声に決して耳を傾けませんでした。本来の使命からかけ離れた高慢さと偽善という罪が、神の独り子を抹殺させたのでした。人間の現世への執着と、神の国との隔たりの大きさに嘆息する思いです。

 神は見かけではなく、私たちの心の深い所を見られる神であり、キリストの十字架によって私たちを罪から解放し、その魂、霊の中身をいつも見ておられ、癒し愛され、救ってくださるお方です。  ヨハネ1:10—12では「この方を受け入れた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあります。聖書を見ると、神のしもべには二つのタイプがあるように見受けられます。一つは預言者エレミヤとかバプテスマのヨハネのように、生まれる前から聖別され、特別な使命を持って生まれて来た人です。そしてもう一つは、神を信じて救われた人です。前者には自分の判断はありませんが、後者には神の働きかけがあったとしても、少なくとも信じる決断だけは自分でしたのです。私はこのどちらのタイプかを皆さんが詮索することに、あまり意味を見出だしません。いずれにしても、御子を信じるということに、「神の特別な御手なしに、自分は信じることができなかった」という事実が、私たちを謙虚にさせるからです。

 大切なことは、十字架の神の愛とあわれみが私たちの上にあり、それを失わないということです。これは特別な恵みであり特権なのです。私たちは世にあって、百人に一人もいない、永遠のいのちを与えられた神の子なのです。光の子が闇の子のような顔をし、目を落として歩んではなりません。喜び感謝し、過ぎ去る世のことで思い煩わないようにしましょう。決してこの永遠のいのちと言う特権を手放さないのです。

2014年9月14日 (日)

神の国はあなたがたのただ中にあるのです

ルカの福音書 17章21節  
聖書のルカ伝で繰り返し強調されている(=重要な)ことに、「神の国」があります。神の国とはどういう所でしょう?聖書の黙示21章によると、私たちは神の家族のようになる所です。ずっと共に居るだけでなく、住まいまで一緒です。そこでは私たちの目の涙も完全に拭われ、死も悲しみも、叫びも苦しみも無い・・・つまり人間的な煩いから解放された世界です。何と言う素晴らしい所でしょう!一刻も早く行きたい国、所です。

 しかし神の国とは、今の血肉の体ではなく、霊と御霊の体で行くと聖書にあります。そうであれば、すでにこの世において新生したクリスチャンには、霊的には「神の国は、(すでに)あなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」と言えるのです。
 さて問題は如何にして神の国行きを実現するか?です。まず必要なのは神の国へのパスポートです。そのパスポートとは十字架と復活です。確かにそれらを信じていれば入国はできますが、入国してから、実際にはその国の通貨やホテルがなければなりません。これはさしずめ天に宝を積むことや、イエス様が用意してくださる住まいであると言えるでしょう。

 ルカ伝でもう一つ繰り返し説かれていることに「謙遜」があります。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ(14:11,18:14)」、「自分を義人だと自認し(18:9)」、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ(18:15)」などです。  これらの例から、神の国に住む人とは、謙遜という特性を持っている人でもあるようです。天に宝を積む、それはこの世において、例外無く神から厳しい試練を与えられた人です。そうでなければ到底、己の力では望めない特性です。ヨブのような理不尽な試練、これは特別な神の祝福であることがわかるのです。神から愛されるとは、同義語で試練なのです。

 さらに言えば、この謙遜は実は次第に失われ、いつまた高慢への道を歩むかも知れません。謙遜を終世実現させる最大のポイントは、「自分の十字架を負って従って(ルカ9:23—25・14:27)いけるかどうか」です。パウロには三度も神に願ったという、肉体に一つのとげがありました(2コリント12:7-8)。このとげをパウロは、「私が高ぶることのないように、私を打つためのサタンの使い」と言っています。負わされた十字架、それが私たちを滅びから救うのです。こうしてみると、神が為され、許されることに、悪い事は何一つありません。

 自分の罪深さを常に悔い改め、むしろ弱さを誇り、ゆるされた十字架を負い続ける忍耐こそ、神の国での豊かな富と、立派な住まいを保証するものです。このような永遠の国の希望こそ、真にこの世での生きる、私たちの希望であり力です。またそれは、必ず手にする勝利の冠であります。

2014年9月 7日 (日)

ここに愛がある

1ヨハネ 4章10節

 一般に神とは恐ろしいとか、近寄りがたいと思われています。事実聖書には、けっして馴れ馴れしそうに、親しそうには描かれてはいません。雷鳴やラッパ、大風のようであり……
 しかしそれは神の登場時の描写だけであって、私には、燃える柴でモーセに呼びかけられたような、細い小さい声でした。私が個人的に体験している神とは、金太郎飴のように、どこを切っても愛しか見ることができないお方なのです。皆さんの中に、神様を怖いと誤解しておられてはいけませんので、個人的な体験としての、私の知る神様のご紹介させていただきたいと思います。

 エレミヤ1章5節では、神は「あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し」とあります。私たち神を信じる者は、母の胎の内に居る前から、つまり霊に創造され、霊の状態であった時に、既に神によって聖別されていたと私は信じます。神は、私たちが神の愛に気づくその時まで、変わらぬ愛で守り、育て、時至らば試練を許し、ご自分を明らかにしてくださったのですから、この方を私たちが父として愛するのは当然です。

 私たちの人生の中に、神の手を見出だしましょう。恩知らずな親不孝者から神に感謝し、神の愛を知り、分かる者となりましょう。そうすれば、私たちは神を愛する存在となることでしょう。

 私は二十歳でバプテスマを受けました。愛を知らない人間でしたので、愛する人と結婚したいと思い込んでおりました。しかし意中の人との結婚が絶望的になった時、修道院に入ろうと決心しました。司祭と話し、四月からという時、六年もまったく音信不通だった意中の人から、突然結婚しても良いと知らせが来ました。それで私は修道院に入ることから守られ、新たな道に進むことになりました。
 ところでもし修道院に入っていたとしたら、私の人生はまったく違ったものになっていたことでしょう。神は時を逃さずに、私の人生に御手をのばされ、導こうと思う者を導かれるのです。神を信じ、その御手の内にあるものは幸いです。ハレルヤ!

 その修道院への身辺整理で、それまでの会社を辞め、教職の道に入ったことも、素晴らしい導きでした。牧師に今召されていると、教師とは牧師訓練の場として、最良の道であったと思うのです。
 みなさん、神を信じ、神のものになってください。その祝福は、この世においても素晴らしいのですが、また永遠のいのちという、世の何ものをもってしても得られないものです。

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