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2014年9月14日 (日)

神の国はあなたがたのただ中にあるのです

ルカの福音書 17章21節  
聖書のルカ伝で繰り返し強調されている(=重要な)ことに、「神の国」があります。神の国とはどういう所でしょう?聖書の黙示21章によると、私たちは神の家族のようになる所です。ずっと共に居るだけでなく、住まいまで一緒です。そこでは私たちの目の涙も完全に拭われ、死も悲しみも、叫びも苦しみも無い・・・つまり人間的な煩いから解放された世界です。何と言う素晴らしい所でしょう!一刻も早く行きたい国、所です。

 しかし神の国とは、今の血肉の体ではなく、霊と御霊の体で行くと聖書にあります。そうであれば、すでにこの世において新生したクリスチャンには、霊的には「神の国は、(すでに)あなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」と言えるのです。
 さて問題は如何にして神の国行きを実現するか?です。まず必要なのは神の国へのパスポートです。そのパスポートとは十字架と復活です。確かにそれらを信じていれば入国はできますが、入国してから、実際にはその国の通貨やホテルがなければなりません。これはさしずめ天に宝を積むことや、イエス様が用意してくださる住まいであると言えるでしょう。

 ルカ伝でもう一つ繰り返し説かれていることに「謙遜」があります。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ(14:11,18:14)」、「自分を義人だと自認し(18:9)」、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ(18:15)」などです。  これらの例から、神の国に住む人とは、謙遜という特性を持っている人でもあるようです。天に宝を積む、それはこの世において、例外無く神から厳しい試練を与えられた人です。そうでなければ到底、己の力では望めない特性です。ヨブのような理不尽な試練、これは特別な神の祝福であることがわかるのです。神から愛されるとは、同義語で試練なのです。

 さらに言えば、この謙遜は実は次第に失われ、いつまた高慢への道を歩むかも知れません。謙遜を終世実現させる最大のポイントは、「自分の十字架を負って従って(ルカ9:23—25・14:27)いけるかどうか」です。パウロには三度も神に願ったという、肉体に一つのとげがありました(2コリント12:7-8)。このとげをパウロは、「私が高ぶることのないように、私を打つためのサタンの使い」と言っています。負わされた十字架、それが私たちを滅びから救うのです。こうしてみると、神が為され、許されることに、悪い事は何一つありません。

 自分の罪深さを常に悔い改め、むしろ弱さを誇り、ゆるされた十字架を負い続ける忍耐こそ、神の国での豊かな富と、立派な住まいを保証するものです。このような永遠の国の希望こそ、真にこの世での生きる、私たちの希望であり力です。またそれは、必ず手にする勝利の冠であります。

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