ここに愛がある
✝ 1ヨハネ 4章10節
一般に神とは恐ろしいとか、近寄りがたいと思われています。事実聖書には、けっして馴れ馴れしそうに、親しそうには描かれてはいません。雷鳴やラッパ、大風のようであり……
しかしそれは神の登場時の描写だけであって、私には、燃える柴でモーセに呼びかけられたような、細い小さい声でした。私が個人的に体験している神とは、金太郎飴のように、どこを切っても愛しか見ることができないお方なのです。皆さんの中に、神様を怖いと誤解しておられてはいけませんので、個人的な体験としての、私の知る神様のご紹介させていただきたいと思います。
エレミヤ1章5節では、神は「あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し」とあります。私たち神を信じる者は、母の胎の内に居る前から、つまり霊に創造され、霊の状態であった時に、既に神によって聖別されていたと私は信じます。神は、私たちが神の愛に気づくその時まで、変わらぬ愛で守り、育て、時至らば試練を許し、ご自分を明らかにしてくださったのですから、この方を私たちが父として愛するのは当然です。
私たちの人生の中に、神の手を見出だしましょう。恩知らずな親不孝者から神に感謝し、神の愛を知り、分かる者となりましょう。そうすれば、私たちは神を愛する存在となることでしょう。
私は二十歳でバプテスマを受けました。愛を知らない人間でしたので、愛する人と結婚したいと思い込んでおりました。しかし意中の人との結婚が絶望的になった時、修道院に入ろうと決心しました。司祭と話し、四月からという時、六年もまったく音信不通だった意中の人から、突然結婚しても良いと知らせが来ました。それで私は修道院に入ることから守られ、新たな道に進むことになりました。
ところでもし修道院に入っていたとしたら、私の人生はまったく違ったものになっていたことでしょう。神は時を逃さずに、私の人生に御手をのばされ、導こうと思う者を導かれるのです。神を信じ、その御手の内にあるものは幸いです。ハレルヤ!
その修道院への身辺整理で、それまでの会社を辞め、教職の道に入ったことも、素晴らしい導きでした。牧師に今召されていると、教師とは牧師訓練の場として、最良の道であったと思うのです。
みなさん、神を信じ、神のものになってください。その祝福は、この世においても素晴らしいのですが、また永遠のいのちという、世の何ものをもってしても得られないものです。
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