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2014年10月

2014年10月26日 (日)

イスラエルを祈る

ローマへの手紙 2章29節

今また私たちがイスラエルに関心を持たねばならないのは、私たちがこのイスラエルに接ぎ木された存在だからです。このTシャツを見てください。イスラエルに行けばたいていのお土産屋で見つけるものです。この図案は(ローマ書11:17-18) を指しています。聖霊を表すメノーラはダビデの星、つまりイスラエルを通してクリスチャンである私たちに下ったのです。私たちが信仰の豊かな実をつけているとした、それは幹であり、根であるイスラエルのおかげなのです。Img_4908



 そしてこのようにイスラエルが頑なにされたのは、全世界が福音を聞く時=異邦人の完成のなる時までのことであり、それからイスラエルがみな救われるためなのです。(ローマ11:24-25)

 イスラエルへの派遣が明日から始まります。私たちは何故エルサレムの平和を祈り、実際にイスラエルで新年を迎えるのかといえば、この奥義が実現されるためなのです。

 それでは頑なにされたイスラエルを見ていきましょう。パウロたちはユダヤ人ではない異邦人伝道において、いく先々で多くの収穫を得ました。福音は割礼を受けていない異邦人にも等しく注がれたのです。異邦人にとっては福音が大切なのであって、ユダヤ人になることではありませんでした。むしろそれは割礼という「行いによって」救いを得ようとすることで、信じるだけで救われるという福音に反することでした。

 しかし、エルサレム教会の人たちはそうは考えませんでした。全員が割礼を受けていたことでしょうし、信仰の中心には神殿があり、イスラエル人でなくては神殿に出入りすることも、イスラエル人を救うことはできません。割礼を否定するなら、この全てがふさがれることになります。ですからパウロとバルナバがやって来て、激しい論争のあげく、異邦人に割礼を強要しないことになりましたが、それはあくまで異邦人に対してのことであって、ユダヤ人クリスチャンの割礼を否定したわけではなかったと想像されます。

 しかし神の裁きは明らかでした。エルサレムはローマ軍によってキリストの預言通りに完全に破壊され、ユダヤ人は国を失ってディアスポラ(離散)のユダヤ人となりました。そしてヨーロッパ各地では、キリスト教徒によって迫害される受難の歴史が続きました。しかし最初に学びましたように、聖書では反対のことを言っております。今預言通りにイスラエルは再建され、世界中からイスラエルの民が帰還しつつあります。私たちは幹であり根であるイスラエルを支援し、この民が悔い改めてイエスを信じ、こうして神の御心がなるように祈るのが接ぎ木された枝としての使命なのです。
 神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:29)

2014年10月19日 (日)

私は造られた

ローマ人への手紙 9章15~16節

本日の聖書箇所は少し注意が必要です。ひょっとして「自分をあわれな者として」見ることがポイントだと勘違いされるかもしれません。そうではなく、元の出エジプ記を見るなら、これは選びにおいて人間的な要素はなく、まず神のみ心、主権がある、と言っているのです。ですから16節に「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」と言っているのです。

 私たち人間は、基本的に欲求不満の存在です。幼い時にはありませんでしたが、先ず他と見比べ始め、羨望を持ったりします。穏当ではない上昇志向を持つ者さえあります。ある意味、それが叶えられないと嫉妬とか自己卑下、コンプレックスさえ持つのです。クリスチャンでも、試練の中にあっては、神に向かって「理不尽な」などと叫ぶのです。私だけでなく、同様な経験をされる方が多いのではないでしょうか。これらはみな、人間の罪の性質、高慢を物語っているのです。

 私たちは神によって造られました。陶器師は実用オンリーの水瓶も、実用にならない花瓶をも同じ手から作ります。しかしそれぞれ目的があって造られました。その造られたものが、自分にないものを羨ましく思うことは愚かなことです。

 これは自分中心、利己的な視点で見ることから生じます。神の視点が欠けていると、不平不満、欠陥だらけにしか見えません。自分が存在する真の計画、それを知らないことはなんという不幸でしょうか。ために欲求不満に陥るのです。
 植物の種を見てください。彼らには何一つ選びがありません。落とされた所、そこが岩の間であれば、岩を割って生えようとします。あるいは実を結ぶことができない種もあるのです。しかしどんなに過酷でも、そのチャレンジをあきらめることはありません。どんな大地でも、雨と気温の条件さえ揃えば、つまり時がくればチャレンジするのです。

 しかし人はどうなのでしょうか?与えられた知恵と知識を正しい方向に用いず、被造物として神に感謝することがありません。高ぶって、神のようになろうとしたサタンは滅ぶべき者に定められました。私たちが同じことをしてはいけません。

 また神の計画は、聞き従いのないところにお語りになることはありません。私たちは悔い改め、神に従って生きる決断をしなければなりません。その時私たちは新生し、神である聖霊との交わりが回復されるのです。私たちは神を知り、神はご自身の計画を明らかにしてくださいます。肉と罪の時代、あらゆる不満に思えていたことが、それが実は最善の神の計画があったことを知るのです。あなたはどちらを選びますか?

2014年10月12日 (日)

それでも私はリバイバルを

ローマ人への手紙 9章2~3節

よく韓国は信仰、台湾は賛美、日本は頭と言われます。その現実を見て見ましょう。クリスチャン3割の韓国。その町々の中心部に十字架の塔が建つ教会が多く、歴代の大統領はキリスト教徒である。確かにクリスチャン国の様相を呈しているが、かつてのリバイバルが父祖の代となっており、今は聖霊の継承が大問題となっている。台湾は私が直に聞いた所、1割だという。台湾の教会はソングリーダー形式の礼拝であり、賛美に臨在があったのです。この国では、今まさにリバイバルが始まろうとしているのかもしれない。

本日の聖書箇所ーーーこれはパウロが同じユダヤ人の救いについて、まさに心臓を真二つにしたような言葉で吐露しています。神の御心は異邦人へ。そしてその使徒として召されたパウロ。しかし彼は異邦の地(キリキアのタルソ)に育ったユダヤ人であって、ガマリエル門下となり、その熱心さがクリスチャンを迫害したのです。しかしダマスコへの途上で神に召された彼は、何よりも愛したユダヤ人にではなく、何と異邦人に遣わされたのです。それでもなお彼は心から、イスラエルが救われることを願っているのです。

 今回私は台湾の新竹の教会の教会、<中華聖潔会 鳳山村教会>のもてなしの愛に感動しました。これまでの考えがグラッともなりました。「日本人の救い、リバイバルなんて、そんなことにこだわっているのはおかしいんじゃあないか。ここに日本人よりも、友人や家族よりももっと近い人、真の兄弟姉妹が居ると。天国に行ったら、何国人も民族も関係ないんじゃあないだろうか」と。日本人の救いだけを考えるのは、国境を意識した小さな事に過ぎないかとも思わされたのです。天国では何国人は無い。みな兄弟姉妹なのですから。

 しかし、です。日本はどうか。真逆の環境です。今この国では宗教と言うと色眼鏡で見られ、おかしな人と見られるようです。この国の多くの人の考えは、人は必ず死ぬという肝心なことが想定外です(笑い)。神を信じない自分たちの行き先とは、地獄であることが分かっているのでしょう。それゆえ一時でも死を考えないようにし、生きているだけがすべてで死んだら何もないと。ああ実にあわれな国民が我が同国人なのです。何のためにこの命があるのか、命の用い方を知らないのです。

 みなさん、愛は遠くの知らない人に対してではなく、聖書にある通り、あなたの隣り人に対してではありませんか?身近な人を愛さなくて、何の愛でしょうか!身近な友であり、親族であり、家族を愛せなくて、何の愛でしょうか!私たちクリスチャンは日本人の0,2%かも知れませんが、一粒の稲の種は千倍の実を実らせるのです。時が来た時、神は千倍どころではない働きをしてくださることでしょう。私たちはその種なのです。神に期待し、信頼する者は失望に終わることがないのです。

2014年10月 5日 (日)

神の勝ち、主の勝利

ヨハネの福音書 16章33節
ヨハネ伝14:6-8に興味あることが語られています。ピリポ(おそらくナタナエル)が、イエス様の「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに来ることはありません」の言葉に、「私たちに(その)父を見せてください。そうすれば」と反応します。いつもおそばに居た弟子ですらこう言うのですから、今日の熱心なクリスチャンが同じ様なことを思うのも当然かもしれません。

 曰く「神様が分かりません。神様とはどのような方なのですか?」と。またさらに「神様は裁かれる怖いお方ではありませんか?」とも。しかし「怖い」と感じられるのであれば、その方と神様との関係は正常なものではありません。

 神様が怖いと感じておられるならば、1タラントを地面の中に隠しておいたしもべと同じで、神様からはお褒めにあずかれなくなります。なぜ怖れるのでしょうか?怖れは神様との関係を損なう障害物ですから、これは必ず取り除かれる必用があります。神様は絶対的に愛なるお方なのですから。

 次に「神様がよくわからない」と言われる方、それには二つ考えられます。一つは聖書、特に福音書をよく読んでいなかったためか、もう一つは、読んでいても霊的に目隠しさせられていたせいなのかも知れない、ということです。では本日は聖書からイエス様のお人柄を再確認いたしましょう。

 聖書のイエス様(=神様)とは、御元に来る身体や精神のあらゆる病を癒し、さまざまな身体障害を即座に直し、嵐をしずめ湖の上を歩き、死人をよみがえらせたお方です。また弟子たちの足を洗うという、奴隷のようなことまでされる謙遜そのもののお方でした。

 またこの方は実にあわれみ深いお方であって、見せかけや高慢を厭われ、貧しい者、罪の女、取税人、死刑に処せられている極悪人でさえもあわれまれたお方です。確かに罪が少しでもあれば、誰も聖い神の国に入ることはかないません。神の子、キリストの十字架だけが、罪を完全に贖い、きよくできるので、「わたしを通してでなければ」と言われたのです。……何と神でありながら卑しい人となって世に来られ、あらゆるよいことをされ、挙げ句の果てにあまりにもむごたらしい十字架に架かってくださった。それをご自分の使命として来られたのですが、もしこれに愛を感じなかったとしたら、それは……文字通り救いようがないということになります。

 このイエス様に私たちが枝としてつながっているとするなら、100%確実に私たちは勝利を得るのです。神に愛され、また神の愛が私たちを通して流されて行くからです。

2014年10月 1日 (水)

2014年9月 台湾派遣

コリント人への手紙Ⅰ 2章3-5節
 今回の台湾派遣の目的は二つありました。一つは黙示録の大リバイバルを共に担う台湾の教会探し、もう一つは主の十字架の台北教会設立のためです。「台湾にチームを派遣します」と語られた途端に、通常の派遣の人数をオーバーしていたのです。しかも讃美隊としてGiftsの全員、映像班も3人のフル、ミッションもアジア担当者を含め3人がそろい、まさに完璧な陣容だったのです。

 今回の台湾派遣は昨秋のチェコのプラハでの関わりから開かれたのですPhotoが、いったん頓挫した後、大重牧師の関わりから再び開かれたのものです。ここに一つの語りかけがありました。それは情報も大切なのですが、人と人との直接の関わりに勝るものはないことです。マタイ伝28章の大宣教命令「あなたがたは行って」という「行く」ということが、当時も、今も全く同じ重さを持っているのです。
 台湾で奉仕した二つの教会、最初は台南におけるエデン(伊甸)基督教会であり、次は新竹の町外れにあった鳳山村教会です。大重牧師はかつてエデン教会の招聘を受け、十年間ほど台湾の地での宣教の働きを担われました。鳳山村教会の牧師夫人は、当時の大重牧師のメンバーでした。
 エデン教会は古くからの大きな町、台南の市街にあり、鳳山村教会は新竹の田舎にありました。しかし集会や礼拝では、両方ともメッセージ以外、ソングリーダーがすべて導くスタイルでした。これからの礼拝は、このようなスタイルになるのは時間の問題でしょう。その時がいつ来ても良いように、備えをしておく必要があると思いました。

 しかし何よりも心に示されたのは、何国人であろうと地上の国籍は関係なく、私たちは天にある神の国の兄弟姉妹であるということでした。台湾のクリスチャンたちの愛にふれたのです。これまで私は、このままでは天国に日本人が少ないことを気にして、残念な思いにとらわれておりました。それで宣教の責任を重く感じていたのですが、それは肉的なものであったと分かりました。神の国では男も女もなく、地上の○○国人ということもないのです。みなさん、海外宣教に特別な使命があるかどうかは別として、是非何度かは行っていただき、同じ兄弟姉妹であるという恵みを体験して欲しいと思います。大宣教命令は遠くの人にも、また、近くの人にも適用されます。しかし遠くの人だけは、行ける時にしか行けないのです。是非祈って、主の時に共に参りましょう。

 (※ このメッセージは10月1日水曜礼拝の内容です)

 

 

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