私は造られた
✝ ローマ人への手紙 9章15~16節
本日の聖書箇所は少し注意が必要です。ひょっとして「自分をあわれな者として」見ることがポイントだと勘違いされるかもしれません。そうではなく、元の出エジプ記を見るなら、これは選びにおいて人間的な要素はなく、まず神のみ心、主権がある、と言っているのです。ですから16節に「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」と言っているのです。
私たち人間は、基本的に欲求不満の存在です。幼い時にはありませんでしたが、先ず他と見比べ始め、羨望を持ったりします。穏当ではない上昇志向を持つ者さえあります。ある意味、それが叶えられないと嫉妬とか自己卑下、コンプレックスさえ持つのです。クリスチャンでも、試練の中にあっては、神に向かって「理不尽な」などと叫ぶのです。私だけでなく、同様な経験をされる方が多いのではないでしょうか。これらはみな、人間の罪の性質、高慢を物語っているのです。
私たちは神によって造られました。陶器師は実用オンリーの水瓶も、実用にならない花瓶をも同じ手から作ります。しかしそれぞれ目的があって造られました。その造られたものが、自分にないものを羨ましく思うことは愚かなことです。
これは自分中心、利己的な視点で見ることから生じます。神の視点が欠けていると、不平不満、欠陥だらけにしか見えません。自分が存在する真の計画、それを知らないことはなんという不幸でしょうか。ために欲求不満に陥るのです。
植物の種を見てください。彼らには何一つ選びがありません。落とされた所、そこが岩の間であれば、岩を割って生えようとします。あるいは実を結ぶことができない種もあるのです。しかしどんなに過酷でも、そのチャレンジをあきらめることはありません。どんな大地でも、雨と気温の条件さえ揃えば、つまり時がくればチャレンジするのです。
しかし人はどうなのでしょうか?与えられた知恵と知識を正しい方向に用いず、被造物として神に感謝することがありません。高ぶって、神のようになろうとしたサタンは滅ぶべき者に定められました。私たちが同じことをしてはいけません。
また神の計画は、聞き従いのないところにお語りになることはありません。私たちは悔い改め、神に従って生きる決断をしなければなりません。その時私たちは新生し、神である聖霊との交わりが回復されるのです。私たちは神を知り、神はご自身の計画を明らかにしてくださいます。肉と罪の時代、あらゆる不満に思えていたことが、それが実は最善の神の計画があったことを知るのです。あなたはどちらを選びますか?
« それでも私はリバイバルを | トップページ | イスラエルを祈る »
「神のみこころ」カテゴリの記事
- わたしの母、わたしの兄弟とは(2024.07.28)
- 後の方が良いに決まっている(2024.06.23)
- 心理的中毒症状(2024.06.16)
- 地獄に天国をもたらす(2024.05.05)
- 天に行く確かな歩み(2024.04.14)
コメント