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2014年10月19日 (日)

私は造られた

ローマ人への手紙 9章15~16節

本日の聖書箇所は少し注意が必要です。ひょっとして「自分をあわれな者として」見ることがポイントだと勘違いされるかもしれません。そうではなく、元の出エジプ記を見るなら、これは選びにおいて人間的な要素はなく、まず神のみ心、主権がある、と言っているのです。ですから16節に「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」と言っているのです。

 私たち人間は、基本的に欲求不満の存在です。幼い時にはありませんでしたが、先ず他と見比べ始め、羨望を持ったりします。穏当ではない上昇志向を持つ者さえあります。ある意味、それが叶えられないと嫉妬とか自己卑下、コンプレックスさえ持つのです。クリスチャンでも、試練の中にあっては、神に向かって「理不尽な」などと叫ぶのです。私だけでなく、同様な経験をされる方が多いのではないでしょうか。これらはみな、人間の罪の性質、高慢を物語っているのです。

 私たちは神によって造られました。陶器師は実用オンリーの水瓶も、実用にならない花瓶をも同じ手から作ります。しかしそれぞれ目的があって造られました。その造られたものが、自分にないものを羨ましく思うことは愚かなことです。

 これは自分中心、利己的な視点で見ることから生じます。神の視点が欠けていると、不平不満、欠陥だらけにしか見えません。自分が存在する真の計画、それを知らないことはなんという不幸でしょうか。ために欲求不満に陥るのです。
 植物の種を見てください。彼らには何一つ選びがありません。落とされた所、そこが岩の間であれば、岩を割って生えようとします。あるいは実を結ぶことができない種もあるのです。しかしどんなに過酷でも、そのチャレンジをあきらめることはありません。どんな大地でも、雨と気温の条件さえ揃えば、つまり時がくればチャレンジするのです。

 しかし人はどうなのでしょうか?与えられた知恵と知識を正しい方向に用いず、被造物として神に感謝することがありません。高ぶって、神のようになろうとしたサタンは滅ぶべき者に定められました。私たちが同じことをしてはいけません。

 また神の計画は、聞き従いのないところにお語りになることはありません。私たちは悔い改め、神に従って生きる決断をしなければなりません。その時私たちは新生し、神である聖霊との交わりが回復されるのです。私たちは神を知り、神はご自身の計画を明らかにしてくださいます。肉と罪の時代、あらゆる不満に思えていたことが、それが実は最善の神の計画があったことを知るのです。あなたはどちらを選びますか?

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