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2014年10月 5日 (日)

神の勝ち、主の勝利

ヨハネの福音書 16章33節
ヨハネ伝14:6-8に興味あることが語られています。ピリポ(おそらくナタナエル)が、イエス様の「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに来ることはありません」の言葉に、「私たちに(その)父を見せてください。そうすれば」と反応します。いつもおそばに居た弟子ですらこう言うのですから、今日の熱心なクリスチャンが同じ様なことを思うのも当然かもしれません。

 曰く「神様が分かりません。神様とはどのような方なのですか?」と。またさらに「神様は裁かれる怖いお方ではありませんか?」とも。しかし「怖い」と感じられるのであれば、その方と神様との関係は正常なものではありません。

 神様が怖いと感じておられるならば、1タラントを地面の中に隠しておいたしもべと同じで、神様からはお褒めにあずかれなくなります。なぜ怖れるのでしょうか?怖れは神様との関係を損なう障害物ですから、これは必ず取り除かれる必用があります。神様は絶対的に愛なるお方なのですから。

 次に「神様がよくわからない」と言われる方、それには二つ考えられます。一つは聖書、特に福音書をよく読んでいなかったためか、もう一つは、読んでいても霊的に目隠しさせられていたせいなのかも知れない、ということです。では本日は聖書からイエス様のお人柄を再確認いたしましょう。

 聖書のイエス様(=神様)とは、御元に来る身体や精神のあらゆる病を癒し、さまざまな身体障害を即座に直し、嵐をしずめ湖の上を歩き、死人をよみがえらせたお方です。また弟子たちの足を洗うという、奴隷のようなことまでされる謙遜そのもののお方でした。

 またこの方は実にあわれみ深いお方であって、見せかけや高慢を厭われ、貧しい者、罪の女、取税人、死刑に処せられている極悪人でさえもあわれまれたお方です。確かに罪が少しでもあれば、誰も聖い神の国に入ることはかないません。神の子、キリストの十字架だけが、罪を完全に贖い、きよくできるので、「わたしを通してでなければ」と言われたのです。……何と神でありながら卑しい人となって世に来られ、あらゆるよいことをされ、挙げ句の果てにあまりにもむごたらしい十字架に架かってくださった。それをご自分の使命として来られたのですが、もしこれに愛を感じなかったとしたら、それは……文字通り救いようがないということになります。

 このイエス様に私たちが枝としてつながっているとするなら、100%確実に私たちは勝利を得るのです。神に愛され、また神の愛が私たちを通して流されて行くからです。

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