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2014年11月30日 (日)

あわれみ深い神

マタイの福音書 9章13節

 みなさんと共に、これまで幾度なく繰り返し学んでいるこの箇所、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない(マタイ9:13)」から、神様とはどのようなお方であるのか、さらに学んで行きましょう。そして神からあわれみを受けることの恵みを、そうです、まさに恵みある人生にみなさんと共にお分かち合いしたいのです。
 今日のこの私の目的に対し、次のような方には理解していただくことが難しいことでしょう。つまり「私は由緒ある正統的な教会の、忠実な教会員です」「私は信仰歴が長く、ちゃんと献金もしてきました」と思っておられる方々です。
 逆に「自分は能力的にも、信仰的にもふさわしくない者だ」とか「自分の心は弱く、罪深い。これで本当に天国に行けるのだろうか」と思っておられる方にとってはたいへん心強いおすすめになるのではないかと思います。今日はそんなあなたのためのメッセージです。

 今日は本当に取るに足らない自分、パウロのように、惨めであわれな自分を持つ人に対してです。
 今日のキリスト教の土台を築いたと言っても過言ではない人物として、使徒パウロの名前が真っ先に上がることでしょう。最近、このパウロを非常に褒めている人の話を聞きました。金で買ったのではない、生まれながらのローマ市民権を持ち、当時の最高学府であるガマリエルの元で薫陶を受け•••と、当時としてはものすごいエリートであったと。確かにその通りでありましょう。

 しかしパウロの心の中を推察して言えば、これらのことをきっと、塵芥のように思っていたに相違ないと思われるのです。なぜならパウロの本当の心の中をうかがい知れるのが、三度も主に願った「肉体のとげ」(2コリント7−9)であり、その時主は「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。「弱さのうちに完全に現れる」という言葉は重いのです。
 次にこのパウロが「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか(ローマ7:24)」と告白していることにも注目してください。神はあわれみ深いお方です。その対極にあるのは己を義とする高慢です。神殿でパリサイ人と取税人の二人が祈った時、義とされたのは胸を打ち叩いて悔い取税人でした。希望を世にではなく、神にしか見つけられない者。罪にとらわれ惨めであわれな自分を、十字架の愛で神が身代わりの愛で愛してくださったことを知る者。これらは神からあわれみを受ける者であり、それはなんと幸いなことでありましょうか。

 みなさん、あわれな自分があった故に、神が愛してくださったことを知れば、それが宝物になるのではないでしょうか。あわれまれる者こそ、神の祝福と愛を受ける者です。

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