フォト
2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »

2014年12月

2014年12月28日 (日)

すべてが益になる

ローマ  8章28節
 初めにこの御言葉では「知っています」とありますが、単に知っているというより、「体験して確かに知っている」のような意味があります。以前は全クリスチャンのことであると私は思っていたのですが、これは少し違うようです。例えば臨終の間際に信じたり、またお腹の中で流産して生まれることができなかったら、益にされるという、神の働きの時間も余地もないわけです。それはそれで別の祝福がありますが、この聖句で指している事柄には該当しません。ですからこれは、すべてのクリスチャンにではなく、「神の計画を実際に進めていくために、聖霊によって特別に選ばれ、召された特別な人たち」なのです。この召しの人たちは、すべてが益にされる道程、つまり困難を通されるのです。

 聖書では特別な苦難の道を通される人たちのオンパレードなのです。アブラハムやヤコブ、ヨセフやモーセ、特にダビデも皆、苦難の道を通された人たちです。そこで私は申し上げたい。みなさんを選び召してくださった神に感謝し、苦難を喜んでください。

 エペソ5:20に「いつでも、すべてのことについて…神に感謝しなさい」コロサイ3:16-17「…感謝にあふれて心から…神に感謝しなさい」とあります。1テサロニケ5:18には「すべての事について、感謝しなさい」とあるように、感謝は繰り返しての神の命令です。つぎにみなさんに与えられた苦しみというものは、子とされるための懲らしめの訓練です。これを私はヘブル12:5から言うことができます。容易には懲らしめられないような継子(ままこ=非血縁の子)でもババ孫でもなく、あなた方は神の実の子なのです。

 ここで今困難にある方に、先に14年にわたる懲らしめを受けた者としてアドバイスさせていただきたいことがあります。なぜ長引いているのですか?その理由は受けている私たちにあります。頑なで、自らの非を悔い改めないので長引いているのではありませんか。
 考えてもみてください。肉の親ですら、子が心から悔いていることを知れば、ただちに抱擁し喜ぶことでしょう。しかし悔い改めないなら、叱責は続きます。天の父も同じです。

 ここで私は今日の御言葉でみなさんに申し上げたいことがあります。「すべてを益に」の、益とは自分のことだと思ってはいませんかと。この益とはあなたのためではなく、神様の「益」のことです。なぜなら私たちは、神の計画を実現していくために召された、ただのしもべであり、時至って、子にしていただく存在ではなのです 思い間違いをしているので、懲らしめがなかなか止まないのではないでしょうか?
  みなさん、悔い改めましょう。かくまで自己中心な自らを、心から悔い改めましょう。どうか天のお父様の御心だけがなるように。これが神のみ心です。私たちはキリストが十字架の上で従順でられたように、キリストに似た者とされることが目標なのです。

2014年12月21日 (日)

キリストの愛

エペソ 3章18~19節
 みなさんは信仰生活の中で、自分の切なる願いと祈りが、神に聞き届けられなかった経験が一度はおありではないでしょうか。

 以前、山を動かす信仰ということから、ある少年が日の出を遅くする自宅の裏山を「神様、よその方に動かしてください」と祈った話をしました。たとえ心からでも、御心ではない恣意的な祈りは答えられません。しかし例えば、幼いわが子が生死の境をさまよう時の祈りなどは、魂をあげての悲痛な叫びです。自分の全存在、信仰をかけてまで祈ることでしょう。

 しかしそれでも、聞かれる祈りと聞かれない祈りとがあります。聞かれなかった時、人は神に失望し、信仰を捨てるのでしょうか? 否、その時こそ、神を本当に信じるチャンスなのです。なぜならこれは、神があなたの主、神で、あなたはそのしもべであるのか。それともご利益があなたの目的で、己の目的に神を従わせようとしているのか、そのどちらかだからです。神は最善のみを働かれる存在で、それを信じることができるのか?

 神が主ならば、たとえ自分の思い通りになさらなかったとしても、自分の判断や思いより、主の方が確かであり、どんなに人間的には身を切る辛さであっても、愛そのものの神がされることには「最善」の結果になるのです。どんなに「不幸」としか見えないことでも、です。事実、私たちはこれまで最善の結果を見てきているのです。

 映画「天国は本当にある」では原作にはない重要なシーン、上述のものが挿入されておりました。それぞれ祈られていたはずなのに、牧師の息子コルトンは奇跡的に命を戻され、一方の長老の息子は戦死しました。バーボ牧師が天国のメッセージすると、この長老家庭にとっては、理不尽にしか思えない現実を思い知らされて辛いのでした。映画はこの理不尽さ、信仰の危機を次のように解決させていました。神は分け隔てなく各家庭の子を愛しており、それゆえ戦死した息子も「天国=永遠のいのち」に導いてくださっているはずだと。

 今私たちは血肉の命を与えられてはいますが、これは一時のもので、やがて失うものです。しかし失われない永遠のいのちこそ、私たちの真の望みであり、そこでまた再び会える永遠ことこそ、何ものにも奪い取ることのできない私たちの喜びなのです。
 戦死、流産、いたいけな子どもの死、その答えは聖書で述べてある通り、理不尽ではなく、神の計画は人間の思いを超えてはるかに高く、最善であるのです。神の愛を信じることがポイントです。私たち人間の思いや願いを越えて、神の高い最善計画があります。信じること、従うことで、全てが益に、全てが最善であったことを私たちは見るのです。これを信仰と言い、私たちは先取って信頼の感謝をするのです。

2014年12月14日 (日)

天国は本当にある

コリント4章18節 
 聖書のここで言う「目に見えるもの」とは、例えば人が最も大切にするご自分の「命」だとしましょう。しかしそれすら、実は滅ぶべき肉体の、一時的なものに過ぎません。しかし目に見えない「霊のいのち」は、滅ばない永遠のものです。滅ぶ血肉の命は、その霊の命を得るための、一度きりの機会として存在します。それゆえ永遠の霊のいのちは、この世の何ものにも勝る、はるかに高い価値があります。

 しかしこれまで神に逆らってきた悪霊は、自分が存在することも、永遠の霊のいのちが在ることすら、巧妙に隠してきました。みなさんが、目に見えるものしか信じないように、死んだ後は無、つまり何もないかのように、騙してきたのです。その結果、かなりは成功することになりました。ですから神を信じる、つまり「霊のいのちを知り、得る」ことは、実際的な戦いの最前線なのです。

 

昨日(14日)から渋谷で公開されています映画に「天国は本当にある」があります。アメリカの牧師「トッド・バーポ」とその4歳前の息子コルトンの実話です。コルトン少年が虫垂炎穿孔(化膿した盲腸に穴があき、腹腔中に膿を拡散)で生死の境をさまよいます。一時的にも死にはしなかったのですが、回復した少年は確かに天国に行ってきたことを家族に話し始めるのです。それは牧師でありながら、幼い息子が語る内容は、それを考えてもみなかった父母にとって衝撃的な内容でありました。
Photo
 一つだけ引用しますが、手術室に運ばれていく愛息コルトンが「パパ!パパ!連れてっちゃ、だめ!」と叫ぶのですが、どうしてやることもできないトッド牧師は、その怒りを神にぶつけます。かろうじて個室に駆け込んで「いったい神はどこにいるのです?これがあなたに仕える牧師への仕打ちですか!あなたに仕えることは、それでもまだ、価値のあることなのか?」と激しくわめき当たり、叫びまくります。だれでもちょっとでもそれを見たら、もう二度とその教会へなど行く気にならないほどに。

 しかし事実は、神の息子イエス様が(本当の父が)、その時コルトンを膝に抱き、牧師の叫びに応えて、「おとうさんの所に返す」ことをされていた時だったのです。少年は天からありのまま見たことを父に伝え、父は仰天します。みなさん、神は生きておられ、私たちの祈りと叫び、そのすべてを見ておられ、聞いておられるのです。これは恐るべきことであり、かつ真実なことです。神は生きておられ、信じて悔い改める者には、永遠のいのちを与えられるのです。アーメン

2014年12月 7日 (日)

ハデスから

Ⅱテサロニケ 1章7~10節

 本日は通称天国と地獄と呼ばれるところからのメッセージです。
 まず言葉の整理をしておきましょう。天国とは新改訳聖書において、地上のエルサレムではなく単に「都」とか「神の国、あるいは神の都」、「天のエルサレム」と呼ばれているところです。地獄とは「ゲヘナ」とか「火の池」と呼ばれるところです。
 これと混同しやすいものに、よみ(黄泉または陰府と表記)と言われている「ハデス」があります。このハデスは天国と地獄が完成するまでの一時待機所のような存在です。ハデスは信者が死後行く「アブラハムのふところ」と、不信者が行く「苦しみのハデス」の二層構造となっており、間に深い淵があって、行き来できないようになっています。苦しみのハデスはまた、「外の暗やみ(マタイ22:13)」とか「火の燃える炉(マタイ13:50)」とも呼ばれています。ハデスは最後の審判が行われると、それぞれ天のエルサレムとゲヘナに移行して、終わりになります。

 さてもう少し具体的に見ていきましょう。ハデスはすでに旧約に在ったところです。ところがイエス・キリストが再び天に戻られた時から、ハデスのアブラハムの懐は天に移行したようです(エペソ4:8、ヨハネ14:2-3、マタイ11:12)。また「苦しみのハデス」の方ですが、こちらはその後も千年王国が終わるまでずっと残り続け、最後の審判によって、ゲヘナへ移行してやっと無くなります。つまり不信者の審きは、一度だけ、最後に行われるのです。そこでは、命の書に名前が記載されていない人すべては、その行いに報われる形での永遠の責め苦、ゲヘナに落とされるのです。ただゲヘナそのものは、キリストの再臨の時にはできておりました。キリストの再臨の時、反キリストと偽メシアの二人がこの時すでに、ゲヘナに投げ込まれたからです。

 さてもう一度整理しておくと、天国はキリストの初臨から始まったこと。御霊の体はキリストの空中再臨からで、この結果天国は、霊体から血肉とは異なった体を持つ段階に入ったこと。この後の地上再臨は、主として信者の居なくなった地上の審きのためのもの。この後の千年王国時代は、それまでのサタンの支配が終わり、神の霊と殉教者たちが王となり、すべての聖徒が支配する時代となること。しかし最後にはサタンが放たれ、残った者すべてが試みを受けるようになること。最後にサタンが再び解き放たれ、その後、最後の審判が来ること。最後の最後に天のエルサレム(天国)が、着飾った花嫁のようにこの地上に降りてくること。

 今生きている私たちは、これらのことを理解した上で、それぞれの使命を果たしつつ、なんとしてでも天の御国に行くことを願い求めましょう。自分の力ではなく、神によってあわれみを受ける者は幸いです。 

« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »