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2015年1月25日 (日)

どうして私をお見捨てに

マルコ 15章3-4節
 多くの人は、サバクタニ(見捨てる)の一語に反応されますが、これは神のご性質からいって、大変不可解なことばです。読み解く鍵はこの直前の「エリ(わが神)」にあります。イエス様は神のひとり子です。この時までは「アバ、父よ」「(我が)父よ」と親しく子として語れていました。しかし、このように「わが神」とは決して言われませんでした。これはまるで他人に対してのようです。そうです、みなさんこの時、イエス様は神の子としてではなく、全人類の身代わりになっておられ、その罪の裁きをお受けになっておられたのです。そのイエス様を神は「そのまま、罪を背負って使命を完了しなさい」と見捨てられたのです。  
 これはちょうど、この二千年前に、神がアブラハムにその子イサクを神殿の丘となるモリヤの地で捧げるようにお命じになったことを連想するのです。アブラハムが神に聞き従って行き、まさに自分のすべてと言っていいほどの独り子を手にかけようとしました。その時、神によって羊が代わりに用意されていました。これと同様にイエス・キリストはまさに全人類の罪のための、神が備えられた犠牲の小羊でありました。イエス様はそのことをよくご存知でありました。みなさんがもし死刑になるとしても、自分の罪のためになら、それは当然のことでありましょう。しかし真実でなく濡れ衣であれば、死ぬに死に切れない思いがすることでしょう。ところがイエス様は何一つ罪を犯されたことがなく、むしろ良いことばかりをされたお方でした。十字架刑はこの方にまったくふさわしくなく、真逆の結果でした。何の理由をも見出せないならば、受ける死の刑罰の苦しみが、どんなに大きかったことでしょうか。それでイエス様はで「きるならば杯を取り除いてください」と祈り、御心ならばと従われたのです。

 十字架上でのイエス様の七つの言葉の内、大きな声で叫ばれたのはここだけです。それは、全人類を救う贖いのわざであることを宣言された意味であり、そのわざが「完了」しつつあることを知らせるものです。この時キリストは贖いの死を成し遂げられましたが、間違ってはいけません、キリストは葬られましたが三日後によみがえり、今は天の父なる神の右に座しておられるのです。つまり神の子としての一切を失っていないのです。それどころか、人間の罪とその苦しみを知っていてくださるキリストが、神の右の座にいて私たちをとりなしてくださっているのです。なんと心強いことでしょうか。

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