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2015年1月18日 (日)

恵みとあわれみとの冠をかぶらせ

詩篇103篇2-5節
 昨日の横浜聖会でP牧師は「神の恵みを受けるのに、ふさわしくない者であると自覚すること、これが信仰の重要な起点である」と強調されました。

 それではあわれみとはどういうことでしょうか?性善説の方たちには納得していただけないでしょうが、私たち人間はアダムとイブが罪を犯して以来、一人残らず、みな罪人なのです。自分で自分を救うことができないあわれな状態なのです。キリストはこの人間お救いのために地上に来られたのです。神を信じない人に共通するのは、自分の罪の自覚が足りないことです。なぜでしょうか?
 これ最大の原因は、自分を人と比べて、義とするからです。私は元教師なので、担任した生徒たちに毎年聞いていたことがあります。それは「自分というものを、善と悪のどちらに見たてているのか?」ということでした。その結果、小学生の低学年では全員が悪いでした。ところが年齢が上がると、つまり社会性が向上すればするほど、自分を人と比べて評価するようになり、一人、また一人と「悪くない」とする子が出てきます。大学生では多数派にまで増えるようですね。
 やがて神の前で全ての人が審判を受ける時がきます。その時問われるのは、その人の義(ただ)しさです。人と比べてどうのこうのと弁明することは、まったく意味が無いのです。

 結局、人間の罪はあまりにも深く、どんなに善行を積んだとしても、キリストの十字架による贖いなしには義とされ、救われることは不可能です。聖書がそう断じて(ローマ3:10)います。それなら十字架はいったい誰のものなのか、どうしたら信じられるのかということですが、もはや自助努力が不可能だと認識し、自分が義とされるためには、路傍で寄付を募る貧しい人のように、神のあわれみをただ求め続ける、そのような人こそ神のあわれみを受ける、恵まれた人なのです。「心の貧しい者は幸いです(マタイ5:3)」という御言葉はこのことを言い表しています。あわれみを乞う人は、もはや自分に希望を抱いてはおりません。プライドもありません。高慢とは縁遠いのです。ただ目をまっすぐに神にだけ向けています。それしかできないからですし、唯一の希望だからです。自分の罪が、どれほど深いものであるかを知る者は、幸いです。神からあわれみを受けるからです。己の罪の自覚、この一点に全てはかかっております。もし深く絶望するなら、あなたは祝福されるのです。
主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶせ、あなたの一生を良いもので満たされる。

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