神に聞き従う
✝ 創世記 12章1-2節
本日の聖書箇所で、神はアブラムに特別な祝福を約束された。ただ一つの条件が付いていた。それは親族を離れ故郷を捨てて、神の示す地に行くならであった。当時の状況を考えるなら、無謀とも思える旅立ちであったが、アブラムは従った。
神に用いられる者の共通すること、それはモーセやアブラハム、サムエルのように、まず聞くことから召命が始まった。私たち人間の本来の姿は、創造時のエデンの園の状態と等しく、神と親しく交わり聞く存在であった。十字架は罪を犯して断たれた神との交わりを回復させるものであり、これによって私たちは元のように神との親しい関係、聞き従うことが可能になったのである。だから私たちは以下のことに確信を持っていよう。神は常に私たちとの交わりを求めておられるのであり、語りかけようとしておられることを。
このことを主人としもべの関係に見てみよう。天のエルサレムに帰るまでの私たちは、父なる神に聞き従うしもべのような存在である。しもべならば、主人の意向や言いつけを聞くことなしに、そのしごとはできない。だから、主人のことばを一度も聞いたことがないしもべという者はいない。イエス・キリストを主と告白しながら、主の声を聞いたことがないという人は、実は大変不自然な状態であり、またもしその必要を感じないと言うのなら、その人は父の実の子ではない。子ならば、霊の父なる神が声をかけられないはずはないからだ。
ではいかにして私たちは神の声を聞くことができるのか。まず神の言葉である聖書がある。聖書が私たちに特別に語りかけて来るような、そんな特別な時がある。それを「レーマ」と言う。一般的な理解の箇所が、その時に限って、ちょうど祈りの答えであるかのようにして迫って来るのだ。このレーマを受けるためにも、聖書に日々親しんでおく必要がある。
次に預言や夢や幻、天使を通して、また各自の思いの中に示しとして語られる。これらは聖書によって吟味し、真に神から来たものかどうかを見分けなければならない。個人的な体験から言うと、神の語りかけというものは自分の肉的な考えや思いとはまったく異なるものであって、雷に打たれるような時もあれば、慰めと勇気を与えて奮い立たせてくださるような時もある。
またもし、神から来たかどうか判断が難しいものがあれば、それは保留にし、影響されないようにされたい。神は私たちの状態と能力を最もご存じであり、私たちが理解できないことを語られるはずがない。危ういのは吟味を怠るか、さもなくば語りかけを切望するあまり、忍耐できずに「語られない」と諦めることである。
神は常に語ってくださるのだが、時がある。「聞き従い」ができるその時を、神は見ておられる。聞こえない理由は神にではなく、その人にあることを忘れてはならない。
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