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2015年2月

2015年2月22日 (日)

あわれみ深い神

マタイ 9章12-13節
「あわれみ」がわかったのは、私がクリスチャンになって三十数年目のある日のことでした。その頃私は家族の病のため、自分が捨てられてしまったように思っておりました。また母の介護のためもあって出世をあきらめたのに、その母も施設に入ってしまい、自分が必要とされるという心の支えを失っていました。若い時よりも、五十過ぎての方が先が見えるだけに、目標とか希望を失った挫折感、失望感は深いのです。
 分別盛りなのに、この年代の男性がつまらない犯罪を犯して、よくニュースになります。その心情というのが私にはよくわかります。先が見えてしまうだけに、今ある力を使って自暴自棄、絶望的な賭けに走るのです。当然ですが、その先にあるのは破滅です。私もまさにそのようなことをしでかそうとしていたその時、突然自分が、ワカサギ漁で釣り上げられそうな魚の幻を見させられました。頭上の明るい氷の上には黒い影があり、それは実はサタンでした・・・そんな幻を見たのです。氷の上では、クリスチャンという大物がかかりそうというので、他のサタンたちも見物に集まって来ているようでした。

 私はこの時ほど、恐れと自分の状態、罪深さを感じた事はありません。それなのに、パクッと餌の針に食いつきそうなどうにも止まらない勢い、その瞬間私は、「神様ぁ!助けてください!」と叫んで目が覚めました。
 その頃の自分は家族の犠牲者だと思っておりました。この被害者意識と言うのは、真の問題を気付かなくさせる原因です。さらにプライドが邪魔をし、自分の霊的な状態を全く分からなくさせていました。しかし、この恐ろしい幻を体験してからというもの、どんなにか自分が自己中心で、不信仰に陥っていたことを直視せざるを得ず、深い悔い改めが私を襲いました。

 私は紫の衣を着た金持ちの家の前で、残飯でも食らって飢えを満たしたいと思っていたラザロを、自分のことのように連想しました。金持ちの家の前に捨て置かれていた極度の貧しい者、全身おできのラザロはどんなに醜く見えたことでしょうか?犬しか彼に関わる者はいなかったのです。ただ一つ、わかることがあります。ラザロは金持ちにあわれみを求めたではなく、彼は惨めすぎる絶望の人生の中で、ただ神のあわれみを求めたのです。それ故神はラザロをアブラハムの懐に迎えら、金持ちは苦しみの世界に送られました。ラザロのように、私も神にあわれみを求め、叫んだのです。「神様、この惨めな私を助けてください」と。

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味でしょうか。神は愛です。その愛とはあわれみの愛です。私はサタンの餌に釣られ、破滅の野ツボにはまって、汚物の中でウジ虫と共に腐り果てて行く者でした。神の御手が私を掴み、救い出してくださったのです。それはあわれみの故でした。このあわれみに対して私に何ができましょう。ただ心から礼拝することであり、賛美することです。神をほめたたえます。

2015年2月15日 (日)

神の愛

ヨハネ 4章16節
 93歳になる広島の母が三日も四日も睡眠が続くようになりましたので、月曜と火曜、急遽、様子を見てまいりました。火曜日の朝、今一度母の手を取り、耳元で何度も話しかけようと手を取った瞬間、私はこれが体温のある母との最後の機会だと感じました。夫のところに行きたいと福音を拒んできた母であり、今となってはアルツハイマー症の進行で、自分が誰なのか家族が誰なのかわかりません。

 母と頭をくっつけ、手を取って祈り始めると、口から出る言葉は驚くようなものでした。これまで決して言ったことのないことを言っているのです。母は家族から見ると、嘘が多く、大いに問題のある人でした。その母を私は見下げていたのです。その母へ、なんと謝罪の言葉を私は綴っていたのです。「お母さん、これまであなたを身勝手で幼稚な母親、子どもへの愛情の乏しい親だと見下していたことをごめんなさい」「自分が理想にしていたような親でないからと、産んでくれたあなたを逆恨みしていた、情けないこの息子をどうか許してください」と。自分でも驚き呆れながら、それでも目頭を熱くしての、心からの告白をしていました。

 その上で救いの祈りをしました。するとそれまで何をしても一切無反応だった母が、私の頭を「ごんごんごん」と頷くようにするではありませんか。一瞬何事が起こったのか?と思いました。すぐにこれは、私の祈りに母が答えてくれたことに気づいたのです。これは特別なことです。嘲笑われる方もおられるでしょうが、しかし私は全能なる神の力を信じます。特別なことが起こったのです。

 私がここで強調したいことは、「悔い改め」と「許し」です。バプテスマのヨハネ以来、神の国はまず「悔い改め」から始まるのです。今でも私たちは、赦され続けられる必要があります。神は愛です。繰り返す過ちや、これまで気づかなかった罪でも、それを心から悔い改めるならば、神はそのすべてを赦してくださるのです。それは一匹の小羊が見つかった時のように、神にとって大いなる喜びの時なのです。神の愛を人間の愛で推し量ってはなりません。その独り子イエス・キリストを人に賜うほどに広大無辺なのです。

 私はかつて心から悔い改めた時、あわれみによって神の言葉を見ました。今また悔い改めた時、神はこの者の願いを聞いてくださいました。悔い改め、あわれみを求めるならば、神の愛は大きく注がれるのです。心から悔い改める者は、神のあわれみによって祝福の逆転を受けるのです。

2015年2月 8日 (日)

あなたのその力で行け

士師記  6章14節
 信仰とはヘブル11章にありますように、見えないものを信じることです。神は唯一である。全知全能にして世界を創造し、人を一人一人造られたもう神。処女が身ごもり、死人をよみがえらせ、湖の嵐を静めその上を対岸まで歩く。全盲の人などあらゆる身体障害者と病人を一瞬にして癒す。これらは常識という川を越え、決心して向こう岸の世界へ渡らなければ決して見えてこない世界です。

 パウロ秋元牧師のクリスチャンネームである「パウロ」とは、実は26聖人のパウロ三木からとられました。自分を十字架にかける奉行代理、寺沢半三郎とは幼馴染でした。パウロ三木は十字架の上でも最後までメッセージをし続けました。その最後にはこの不当な命令を下した太閤秀吉を許し、眼前の寺沢半三郎を許し、突き槍を持った役人を許しました。すべて許したのです。

 先ほど「十字架山」のことをドルカスが証しましたが、どうして浦上の山の上に、大小の十字架をいっぱい立てたのでしょう。それはキリシタン発覚のあと、全国へ苦しい旅をさせられ、各地で拷問され、大勢死に、解放されてからも飢えと疫病でさらに多くの村人が死んだ………これら悲惨な経験を恨まず、許すためでした。十字架山をゴルゴタの丘に見たて、日々見上げて、ただ許すために作ったのです。

 みなさん、許さないと私たちが赦されないのです。それだけでなく、憎しみを抱いたままにしておくと、私たちへの霊的祝福が削がれるだけでなく、それがサタンの入り口となり、囚われ人となってしまう可能性が高いのです。心の深い傷、それが膿んで憎しみとなり、私たちを破滅へと導いてしまいます。最近の中東の国際情勢など、その実例ではないでしょうか。

 信仰とは目に見えない世界を信じることです。26聖人の中のルドビゴ少年は12歳、アントニオは13歳でした。物理的には見えないものが、少年である彼らには確かに見えたのです。彼らには助命という誘惑が、実に巧妙に計算されてしかけられたのですが、永遠のパライソへの確信が揺るぎなくありました。信仰とは「信じる強固な意志」が存在するのではありません。それなら少年たちは、みな十字架から降りてしまったことでしょう。そうではなく、彼らには神がついていて、罵られ嘲られてもただパライソを見据えており、世の富や肉の命は彼らを捕らえることはできなかったのです。永遠に比べれば、すべてはただ過ぎ去るものです。これを信仰と申します。

 二つ申し上げました。サタンにやられないようにするために、徹底的に許しましょう。許す力も、パライソから目を離さない力も、私たちの内にはありません。ただ神から祈り与えられましょう。祈り求める、それが私たちの力です。祈る、信仰はその結果に過ぎないのです。祈りなのです。

2015年2月 1日 (日)

神と神々

申命記  6章4ー5節
 NHKの大河ドラマの「花燃ゆ」では吉田松陰が一番のテーマです。しかし萩に行くと、驚いたことに松陰神社があります。すべてのものに神が宿る、八百万の神々がおります。小学五年生の国語では「わらぐつの中の神様」という教材があって、ていねいに作ったわらぐつの中にも、どうやら神様がいるようです。
 神が唯一であることは、聖書が正しく伝えることができます。その聖書にしても、実は苦戦しました。ギュッツラフ訳のヨハネ伝では、神のことを「極楽」、キリストのことを「賢い者」と訳した。日本語の神ではGodの意味を伝えられないからです。現在の日本人でも、唯一神の「神」と言ったとき、神々の中の一つとして受け取るのが普通です。ですから「自分以外に神はいない」とか「自分だけが神である」と言えば、なんと狭量で傲慢な神なんだと受け取るのです。多神教の国にあっては、クリスチャンが異分子として迫害され、阻害されるのは当然なのです。また教会に集いながら別日にはお寺参りや、仏壇の前で数珠を持って拝んだりする人については、唯一の神がまだわかっていないということになります。

 この神は唯一であるというのは、モーセを通して神が与えられた十戒の一番目にあります。「あなたには、わたしの他に、他の神々があってはならない(出20:3)」つまりそれほどいの一番に重要なのです。本日の申命記6章にあるように、これは、神からの祝福のポイントであり、戒めとして守るというより、神を心から愛する者は、ただ神のみを神とする結果にどうしてもなると言った方が正しいのです。
 なぜでしょうか?旧約聖書を見ると「ねたむ神」という言葉がよく出てきます。天地万物を人のために創造された神は、被造物にすぎない人間を十字架に架かるほどに愛された神です。実の父がいるのに、他の人を自分の父とする子がいるでしょうか?そんな子がいたら、どんなに不出来な父でも落胆をしないでしょうか。妻が夫である自分以上に親密にしている男がいて、それを妬まない夫がいるでしょうか。神と私とは特別な関係であって、他の神々を主なる神と同列に扱うこと、これは到底できないことです。

 だから妬んでくださる神は、特別な、真実の愛をもって私を愛していてくださる神であり、私たちは自分の命すら惜しまずに、この唯一なる神を愛しするのです。「あなた以外に神はいない」ことが分かるのです。

「父なる神、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神は唯一であり、神である」    アーメン。

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