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2015年3月

2015年3月29日 (日)

最後まで堪え忍ぶ者目指して

 黙示録21章3~5節
 本日のデボーション箇所は黙示録22章で、これで260日にわたった新約通読を一通り終えることになります。ただし聖書の中で一番難解であるのも黙示録です。ふだん質問されたことのない方からも問い合わせがありました。そこで今日、消化不良のままで終わらせないため、最後にクリスチャンの心構えとしての黙示録(終末)時代の迎え方というものをまとめてみましょう。イスラエルの再興が実現し、ローマ帝国の版図に近いEUが、一つの通貨と大統領を持って成長してきた現代こそ、終末の時代が来ることは確実なのです。Photo_4

 中東のアラブ圏でイスラム原理主義が跋扈し、テロで世界を震撼させていますが、ヨーロッパではロシアがウクライナ問題で牙をむいております。私が注目するのは最新のイエメン情勢です。フーシー派というシーア派が武力で国を支配しようとしている中、スンニ派の政府側はスンニ派の全アラブ諸国が同盟を組んで武力攻撃を開始しました。ISIS(イスラム国)では必ずしも宗派間対立とは言えなかったのですが、この度のイエメンでは明確な形で露呈してきています。サウジが主導し、比較的穏健なトルコやパキスタン、エジプトまで軍を出そうとする、これは明確な全スンニ派軍の結集です。無論シーアの盟主イランも黙ってはいないことでしょう。これはマタイ24章の「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」が、まさにイスラエルの周辺で成就していくことになります。
 
 さてこのような時代を図に従って見ていきますと、中東和平から始まる患難時代、多くの人々(人類の1/4が)戦争やパンデミックの疫病、飢饉によって死んでいきます。さらに六つ目の封印解除で、大地震とともに太陽が黒くなり、月が赤くなります。これはヨエルの預言の成就であり、聖霊の著しい働きによって全世界に大リバイバルが起こるのです。特に日本とイスラエルにおいて、福音の驚くべきことが起こっていくと私は思っています。その結果迫害も激しくなって来るでしょうが、後の大患難時代に比べればそれほどではありません。

 次の七つのラッパの時代、さらに恐ろしいことが起こってきます。特に、ロシアとその同盟国がイスラエルを攻めてきますが、二回目の大地震によって彼らは敗北します。七つ目のラッパの音とともに、キリストの空中再臨があり、携挙があります。ひどい苦難にあっている私たちは、この携挙にこそ神の守り、希望を見出すのです。昨日マタイ24章の31にも「大きなラッパの響きとともに」とあり、キリストの地上再臨のこととばかり思っていたこの箇所に、携挙を含めての二重性があることに気づきました。ラッパの音こそ1テサロニケ4章16などに共通している携挙の印なのです。

 また万が一携挙に洩れたとしても、落胆を殉教の希望に変え、その力を神に熱心に求めましょう。人にはできなくても、神にはできるのです。これこそ信仰であると先週では学んだではありませんか。現実の不信仰な自分を見るのではなく、神に希望を置き、不可能なことであっても神にとってそれは可能である、これこそ信仰であり、それゆえ大患難時代とは真逆な次の千年王国では、キリストと共に、王としていただけるは確実です。みなさん、神の都エルサレムは一辺が2220kmもあり、面積ではオーストラリアとインドの中間にあたります。しかし砂漠や高原ではない、都市でこれだけなのです。その都の中央には命の水の川が流れており、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」所です。太陽も月もなく、神の御座からの光で夜はありません。私たちは御霊の体に変えられているので、睡眠や食事の必要はないのです。神の御座近くに住まうことができる、父なる神と親しく交われるなんという喜び、感謝の尽きない日々なのでしょうか。これが永遠にあるのです。何としても、何としても私たちは血肉の体をもって今を使命に務め、神の国に行かねばなりません。そのために常に「目をさまして」信仰に立てるように、忠実なしもべであるように、その時を見逃さぬよう、熱心に祈りましょう。

2015年3月22日 (日)

信仰

ヘブル 11章1節 
 ローマ3:28に「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」という、キリスト教の核心、信仰義認があります。同じ一神教であっても、ユダヤ教の律法、イスラム教の六信五行のように、行いによって救われるのではなく、人はただ信じる「信仰」によるというのがキリスト教です。ところがこれを自分の言葉で説明しようとすると、案外むずかしいのです。なぜなら信仰は自分のものではなく、神から与えられるものだからです。
 ローマ人3:28に「信仰によって人は義とされる」とあります。つまり信仰がなければ義(罪が無い)とされないため、天国へ行けなくなります。ヘブル11:6では「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」とあるので、クリスチャンにとって信仰は死活的に重要なことです。では信仰のことを聖書はどのように言っているのでしょうか?

 ヘブル11:1において「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と定義してあります。しかしこの御言葉、ちょっとピンと来ません。そこでリビンバイブルを見ますと「信仰を、どう定義したらよいでしょう。それは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信です。また、何が起こるかわからない行く手にも、望み通りのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです」とあります。
 この言葉から私が連想するのは、ルカ1:37で天使ガブリエルから「神にとって不可能なことは一つもありません」と言われた時のマリヤの言葉「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」であり、マタイ19:26でイエス様が「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」というものです。信仰を理解するために、一言で言えば「神にとって不可能はない」という言葉です。

 少し前、<信仰が薄い、濃いい>という言葉が語られました。自分の今の現実を見、周りを見、これまでの過去を見るならば、ガリラヤ湖上のペテロのように、私たちは恐れ、疑ってしまう、信仰の薄い者です。ところがイエス様が信仰をお褒めになった二人の人物、カペナウムの百人隊長、カナン人の女は共に異邦人でした。彼らは見たからではなく、イエス様をただ信じており、実際の行動で表しました。その信仰とは何か?「神にはどんなことでもできる(=不可能なことはない)」とイエス様の力を固く信じていたのです。見てはいなかった(事実とはまだなっていなかった)けれども、可能性ではなく、願ったことが100%必ずかなえられることを知っていたのです。これはイエス様が神であること、神にはその力があることの信仰告白に他なりませんでした。これが信仰の核心であり、私たち信仰の薄い者が濃い者に変えられていく転換点です。見たこと、起こったことを信じる、これは信仰ではありません。まだ見ぬことを、すでに起こったかのように事実として信じる、これが信仰です。たとえ今自分に信仰がなくとも、イエス様を神とし、信仰が注がれるよう願い求めるならば、これは御心ですから、必ず与えられます。
 さあ、歌集「風のひびき2」の16番の中の「with God, all things are possible」を賛美しながら、共に祈りましょう。

2015年3月15日 (日)

私たちの格闘

エペソ 6章12節
本日の聖書で格闘が出てきますが、誰と格闘するのか?ヤコブのように神との格闘なら祝福を得られるでしょうが、相手はサタン(悪魔・悪霊)です。霊的な存在は四つあります。神・天使・人・サタンです。この中で人だけが肉体と霊とのハイブリッドです。このハイブリッドゆえに人は、神とサタンと戦いの主戦場になるわけです。つまり人の体や今の世界という可視的な舞台で、永遠の存在である霊の争奪戦が行われているのです。神とかサタンとかいう「霊的存在は無い」とされる方が多いのですが、以下の四点において、これは誤りです。

 第一に聖書が創世記の3章から述べています。第二に、イエス・キリストご自身が悪霊の追い出しなどを通して、はっきりと対応しておられます。第三に、土台は聖書ですが、見分けて行くならば、現実の存在として彼らの働きがあることは自明のことです。第四に、パウロやペテロ、主の兄弟ヤコブがサタンという霊的な存在に対して、「立ち向かいなさい」と明言しているのです。無視するのでも、逃げるのでもなく、サタンに対し立ち向かうことが主の御心であります。

 しかし何の準備もなく、素手で立ち向かったのでは愚かです。格闘であり命がけの戦いなのですから、ちゃんと武具をつけ、戦いの訓練を受け、一人前の兵士として召された上でのことです。この辺りのことをこのエペソ5章は教えています。まず戦いには武器と防御具があります。この絵の通りです。

 見ていただければおわかりのように、基本は防具で、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音を運ぶ靴、救いの兜であり、信仰の大盾です。これらの防具に共通していること、それはキリストにあって罪が完全に赦されているということです。私たちが、すべての罪を神に告白したつもりいても、実は自分が気がつかない罪というものが大きく残っていたのでは、大穴の空いた防具では使い物になりません。自分は気がつきませんが、敵であるサタンはわかっているのですから、なおさら要注意です。えてして被害者意識、心の傷がこの気づかない罪を覆っているふたです。戦いに出るのに、神によって完全に赦され義とされる取り扱いを受け、訓練され、召されて立たなければいけない理由がここにあります。

 みなさん、私たち一人一人はやがて神の兵士として立ち、神の力によって霊的な敵に「立ち向かい」、最後には勝利をあげて栄光を神に帰す使命があるのです。このことを聖書では証人と言うのです。力は神のものであり、決して自分に頼らないためにも、十字架に死に、十字架を取らなければならないのです。アーメンでしょうか?

 最後に注意事項を一つだけ言い送ります。人類の始まりであるエバがサタンの声を聞いて誘惑に罪を犯したように、人間よりはるかにまさる悪巧み者、ペテン師のサタンと会話してはいけません。そうではなく、キリストでさえもサタンに対し、神の言葉である「聖書」の御言葉だけで論駁されました。私たちの唯一の武器は神の言葉なのです。有効で適切な御言葉の剣をいつでも打ち出せるよう、聖書に慣れ親しみ、言葉を蓄えておきましょう。祈りをもって聖書を自分の内に、己の肉とさせていただきましょう。剣が研ぎ澄まされ、力が増し加えられ、強力なものとなるために。

2015年3月 8日 (日)

神によって生まれた者は世に打ち勝つ

Ⅰヨハネ 5章1~4節
 非常に強調した言い方をするのですが、私たちに聖霊様を送ってくださるために、イエス・キリストは世に来られ、十字架にかかってくださったのです。聖霊には賜物の働きなど様々ありますが、その中身といか実質は何でしょうか?私は「神の愛」だと思うのです。  

 本日の聖書箇所1ヨハネ4章7節から5章4節までが、この「神の愛」について述べてあります。確かに5章4節は「信仰による勝利」と述べてあります。が、その信仰とは、勝利とは、信仰によって何の勝利を得るのか?ということでもあります。これが本日のテーマです。

  ズバリ申し上げると、以前から4章18節が私は気になっておりました、ちょっと取り扱い注意の言葉であるように思われます。ここでいう刑罰とは欽定訳聖書では fear involves torment とあり tormentの本意は痛みです。ですからここは「痛みを伴う恐れ」と受け取るほうが自然なのです。ではどういう痛みでありましょうか?

 私は「愛せない痛み」ではないかと思います。20節を見ると、目に見える兄弟を愛せないで、どうして見えない神を愛せるのか?と問われています。私たち主イエスを救い主として告白した者のその全員に聖霊様がお住みです。当人が感じようと感じまいと、です。しかし、たとえ神の愛、聖霊に満たされようと、時間が経つと相変わらずかつての自分に戻り、愛せてない自分を見るのです。以前の怒りや憎しみ、恐れが程度は軽くなってはいてもやはり自分の中に見るのです。聖霊に満たされ続けていない限り、わたしたちには愛がありません。

 つまりクリスチャンというものは、信じたその日以来、己が内に神の国、つまり聖霊様が住まわれており、その聖霊様の領国エリアを広げる戦いが、己の内に日々繰り広げられているのです。聖霊のバプテスマやその追体験によって我々は時々勝利を見ます。天国はかくありなんという、神の愛の完全さを体験するのです。これをたえず求めてやまないのですが、期間限定的であり、日常の大部分はそうではありません。

 ですからこれは特異な戦いです。なぜなら宣戦布告は私がするのですが、戦う力は私に無く、神に力があり、神へのへりくだった祈り求めによって勝敗を決するからです。神が私の代わりに戦ってくださるのであれば、その結果は明白で、必ず勝利するのです。

 私たちに兄弟を愛する力はなくとも、神にそれを真摯に祈り続けることによって、愛することができるようになると信じます。これを成してくださるのは神であり、その信仰です。このことを信仰の勝利と
1ヨハネの5章4節は説いていると私は受け取ります。みなさん信仰を祈り求めてください。愛も信仰も神から来るのです。すると現実のエゴイスティックな己れから解放され、神の言葉が勝利であり、神の愛を受けた勝利をくださることでしょう。

2015年3月 1日 (日)

自分の罪を言い表すなら

1ヨハネ 1章8-10節  
 世の中には人間について、二つの大きな考え方の違いがあります。一つは性善説に基づくもので、人間を善と見なし、理想郷を作ろうと推し進めたものが、あの恐ろしい共産党独国家であり、指導者の神格化でした。このような人間を善と見る方々は、神を信じません。なぜなら人間である自分自身が、それぞれ神なのですから。  しかしたとえ性悪説に立てた人でも、すべてではありませんが多く人にとって、神を信じるとは自分の救い、永遠のいのちが欲しいためです。単にクリスチャンという勲章が欲しいだけの人もいます。それが神を知るにつれて、真の祝福は自分を神に明け渡し、自分ではなく、神のみこころを行なうことだとわかるようになれるかどうかが、まず大きな分かれ目です。己れのためにでなく、神に聞き従って生きることこそ真のクリスチャン生活です。言い方を変えれば、己の罪を深く自覚し、神にふさわしくないと思える人、その人こそ神にふさわしい人なのです。

   本日のテーマ「自分の罪を言い表す」という聖書の御言葉ですが、皆の前で罪を表明すること、これは一人で神の前に静まって罪を告白し、悔い改めることと大きな違いがあります。
 第一に、神の前と人の前とを使い分けることをせず、ただ神の前に生きる姿を明らかにしています。これは明らかに神に義とされ、神に喜ばれることです。
 第二に力ある証であることです。日本には謙譲語という敬語の分野がありますが、神へのへりくだりを表すのに、自分の罪を言い表すこと以上の謙譲語はありません。
 三番目に大切なことは、これは己の罪に対して、完全な勝利を取ったことになるのです。なぜなら神の前でどんなに罪を告白し、悔い改めていようとも、それを心の内に秘め続けて人前では涼しい顔をしていたのでは、完全ではありません。サタンがそのギャップにつけ込んでくる恐れがあるからです。それを隠すことなく人前で罪を言い表せば、それはもはや秘密でも何でもなく、もはや人とサタンにつけ込まれる恐れはありません。罪からの完全な勝利を得ることになるのです。

   衆前で自分の恥をさらし、告白する罪の言い表しということは、恥をものともしない勇気が要りますし、公開に当たっては、自分を下敷きにした上での神の栄光を讃える神への愛と信仰がその土台となります。それゆえ、神はこの「自分の罪を言い表す」者に対して特別な祝福をお与えになります。永遠の神の国において、最大級の祝福であることでしょう。

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