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2015年3月22日 (日)

信仰

ヘブル 11章1節 
 ローマ3:28に「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」という、キリスト教の核心、信仰義認があります。同じ一神教であっても、ユダヤ教の律法、イスラム教の六信五行のように、行いによって救われるのではなく、人はただ信じる「信仰」によるというのがキリスト教です。ところがこれを自分の言葉で説明しようとすると、案外むずかしいのです。なぜなら信仰は自分のものではなく、神から与えられるものだからです。
 ローマ人3:28に「信仰によって人は義とされる」とあります。つまり信仰がなければ義(罪が無い)とされないため、天国へ行けなくなります。ヘブル11:6では「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」とあるので、クリスチャンにとって信仰は死活的に重要なことです。では信仰のことを聖書はどのように言っているのでしょうか?

 ヘブル11:1において「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と定義してあります。しかしこの御言葉、ちょっとピンと来ません。そこでリビンバイブルを見ますと「信仰を、どう定義したらよいでしょう。それは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信です。また、何が起こるかわからない行く手にも、望み通りのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです」とあります。
 この言葉から私が連想するのは、ルカ1:37で天使ガブリエルから「神にとって不可能なことは一つもありません」と言われた時のマリヤの言葉「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」であり、マタイ19:26でイエス様が「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」というものです。信仰を理解するために、一言で言えば「神にとって不可能はない」という言葉です。

 少し前、<信仰が薄い、濃いい>という言葉が語られました。自分の今の現実を見、周りを見、これまでの過去を見るならば、ガリラヤ湖上のペテロのように、私たちは恐れ、疑ってしまう、信仰の薄い者です。ところがイエス様が信仰をお褒めになった二人の人物、カペナウムの百人隊長、カナン人の女は共に異邦人でした。彼らは見たからではなく、イエス様をただ信じており、実際の行動で表しました。その信仰とは何か?「神にはどんなことでもできる(=不可能なことはない)」とイエス様の力を固く信じていたのです。見てはいなかった(事実とはまだなっていなかった)けれども、可能性ではなく、願ったことが100%必ずかなえられることを知っていたのです。これはイエス様が神であること、神にはその力があることの信仰告白に他なりませんでした。これが信仰の核心であり、私たち信仰の薄い者が濃い者に変えられていく転換点です。見たこと、起こったことを信じる、これは信仰ではありません。まだ見ぬことを、すでに起こったかのように事実として信じる、これが信仰です。たとえ今自分に信仰がなくとも、イエス様を神とし、信仰が注がれるよう願い求めるならば、これは御心ですから、必ず与えられます。
 さあ、歌集「風のひびき2」の16番の中の「with God, all things are possible」を賛美しながら、共に祈りましょう。

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