自分の罪を言い表すなら
✝ 1ヨハネ 1章8-10節
世の中には人間について、二つの大きな考え方の違いがあります。一つは性善説に基づくもので、人間を善と見なし、理想郷を作ろうと推し進めたものが、あの恐ろしい共産党独国家であり、指導者の神格化でした。このような人間を善と見る方々は、神を信じません。なぜなら人間である自分自身が、それぞれ神なのですから。
しかしたとえ性悪説に立てた人でも、すべてではありませんが多く人にとって、神を信じるとは自分の救い、永遠のいのちが欲しいためです。単にクリスチャンという勲章が欲しいだけの人もいます。それが神を知るにつれて、真の祝福は自分を神に明け渡し、自分ではなく、神のみこころを行なうことだとわかるようになれるかどうかが、まず大きな分かれ目です。己れのためにでなく、神に聞き従って生きることこそ真のクリスチャン生活です。言い方を変えれば、己の罪を深く自覚し、神にふさわしくないと思える人、その人こそ神にふさわしい人なのです。
本日のテーマ「自分の罪を言い表す」という聖書の御言葉ですが、皆の前で罪を表明すること、これは一人で神の前に静まって罪を告白し、悔い改めることと大きな違いがあります。
第一に、神の前と人の前とを使い分けることをせず、ただ神の前に生きる姿を明らかにしています。これは明らかに神に義とされ、神に喜ばれることです。
第二に力ある証であることです。日本には謙譲語という敬語の分野がありますが、神へのへりくだりを表すのに、自分の罪を言い表すこと以上の謙譲語はありません。
三番目に大切なことは、これは己の罪に対して、完全な勝利を取ったことになるのです。なぜなら神の前でどんなに罪を告白し、悔い改めていようとも、それを心の内に秘め続けて人前では涼しい顔をしていたのでは、完全ではありません。サタンがそのギャップにつけ込んでくる恐れがあるからです。それを隠すことなく人前で罪を言い表せば、それはもはや秘密でも何でもなく、もはや人とサタンにつけ込まれる恐れはありません。罪からの完全な勝利を得ることになるのです。
衆前で自分の恥をさらし、告白する罪の言い表しということは、恥をものともしない勇気が要りますし、公開に当たっては、自分を下敷きにした上での神の栄光を讃える神への愛と信仰がその土台となります。それゆえ、神はこの「自分の罪を言い表す」者に対して特別な祝福をお与えになります。永遠の神の国において、最大級の祝福であることでしょう。
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