神によって生まれた者は世に打ち勝つ
✝ Ⅰヨハネ 5章1~4節
非常に強調した言い方をするのですが、私たちに聖霊様を送ってくださるために、イエス・キリストは世に来られ、十字架にかかってくださったのです。聖霊には賜物の働きなど様々ありますが、その中身といか実質は何でしょうか?私は「神の愛」だと思うのです。
本日の聖書箇所1ヨハネ4章7節から5章4節までが、この「神の愛」について述べてあります。確かに5章4節は「信仰による勝利」と述べてあります。が、その信仰とは、勝利とは、信仰によって何の勝利を得るのか?ということでもあります。これが本日のテーマです。
ズバリ申し上げると、以前から4章18節が私は気になっておりました、ちょっと取り扱い注意の言葉であるように思われます。ここでいう刑罰とは欽定訳聖書では fear involves torment とあり tormentの本意は痛みです。ですからここは「痛みを伴う恐れ」と受け取るほうが自然なのです。ではどういう痛みでありましょうか?
私は「愛せない痛み」ではないかと思います。20節を見ると、目に見える兄弟を愛せないで、どうして見えない神を愛せるのか?と問われています。私たち主イエスを救い主として告白した者のその全員に聖霊様がお住みです。当人が感じようと感じまいと、です。しかし、たとえ神の愛、聖霊に満たされようと、時間が経つと相変わらずかつての自分に戻り、愛せてない自分を見るのです。以前の怒りや憎しみ、恐れが程度は軽くなってはいてもやはり自分の中に見るのです。聖霊に満たされ続けていない限り、わたしたちには愛がありません。
つまりクリスチャンというものは、信じたその日以来、己が内に神の国、つまり聖霊様が住まわれており、その聖霊様の領国エリアを広げる戦いが、己の内に日々繰り広げられているのです。聖霊のバプテスマやその追体験によって我々は時々勝利を見ます。天国はかくありなんという、神の愛の完全さを体験するのです。これをたえず求めてやまないのですが、期間限定的であり、日常の大部分はそうではありません。
ですからこれは特異な戦いです。なぜなら宣戦布告は私がするのですが、戦う力は私に無く、神に力があり、神へのへりくだった祈り求めによって勝敗を決するからです。神が私の代わりに戦ってくださるのであれば、その結果は明白で、必ず勝利するのです。
私たちに兄弟を愛する力はなくとも、神にそれを真摯に祈り続けることによって、愛することができるようになると信じます。これを成してくださるのは神であり、その信仰です。このことを信仰の勝利と
1ヨハネの5章4節は説いていると私は受け取ります。みなさん信仰を祈り求めてください。愛も信仰も神から来るのです。すると現実のエゴイスティックな己れから解放され、神の言葉が勝利であり、神の愛を受けた勝利をくださることでしょう。
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