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2015年4月

2015年4月26日 (日)

愛し、ねたまれる神

ヤコブ4章5節
本日のヤコブへの手紙4章5節は、難解なところです。
 難解さの第一はこの引用箇所が聖書中に無いことにあります。ヤコブが聖書としたものが現代では紛失したものなのか、あるいはヤコブが聖書全体から要約して言ったものなのか、不明なことです。
 次に文章が NKJV で「The Sprit who dewells in us yearns jealosu?」と人間的に見るならば、ねじれているところにあります。
「神は私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」。文字通りに読んだのでは、以下の通りになります。十字架を信じる者のひとりひとりに分与されている聖霊様を、神様はねたむほどに慕っておられるのだったら、「人間への聖霊分与を後悔しておられるのかなあ、それならいっそ、早く招集をかけて元に帰らされたらよいではないか」と。もちろんこれは誤りです。
 この箇所には別訳というものがあって、そこでは「神が私たちのうちに住まわせた御霊は、ねたむほどに(私たちを)慕い求めておられる」とあります。これであれば、内住されている聖霊様が、宿主である私たちの全き献身をねたむほどに求め恋い慕っておられる、という意味になって、ようやく理解できるのです。

 ああ、神様は「ねたむ」という言葉を使われて、人間の心を熱く愛し、求めておられるのだ。「ねたむ」という言葉には、鷹揚な意味はない。夫婦の関係のように、お互いに相手を唯一無二のものとして第一にし合う関係である。いやそれ以上に、他者の入り込む余地も許されていない関係でもある。相手の(つまり人間の)心の中に、他の愛(世への思いなど)が入り込むことに堪えられないほどの占有し合う、濃密な関係とも言える。

 十字架で独り子さえ惜しまれなかった神は、その対象である私たちを、これほどまでに愛してくださっているのだ。全宇宙を創造し、天地万物を運行され、あらゆる命を支配される神は、信じる者ひとりひとりに助け手のご聖霊様をお送り下さるだけでなく、その心を熱く求めてくださっている。あなたは「うっとおしい」と感じるのだろうか?それとも「無上の愛」を感じるのだろうか?このお方に私たちは返事をしなければならないのだ。

2015年4月19日 (日)

忍耐によっていのちを勝ち取る

† ルカ 21章19節
 忍耐は信仰とセットでよく語られています。また神のことば、その計画の成就を見るには堅く信じること、信仰の対応をすることが必要であると語られているのです。またルカ伝の21章では、「あなた方は、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます」とあります。逆に言えば、終末の患難期には、忍耐がなければ自分のいのちを保つことができないという意味であります。

 しかしこれほど肝要である忍耐とは、いったい何でありましょうか?よく性格とか、人柄に見られる我慢強さを言うのでしょうか?それとも、ただひたすら耐え続ける特殊な人、その力のことを指しているのでしょうか?もし忍耐がそのようなものであれば、私などは その欠けらもなかったといえるのです。
 忍耐という言葉はあっても「自分には忍耐力がある」と思っておられる方は、自分の経験から推しても少数派なのではないかと思われます。私の場合、家族も、仕事にも希望を失って、その怒りを誰もいない早朝のドングリ林の中で、夜遅い広い河原の中でただただ、神に向かって叫び続けていただけでした。「ああ、あなたから祝福を受けるべき家庭が、どうしてこのような目になるのですか!」「神よ、これはあまりにも理不尽です」と。信仰があって耐えていたのではなく、ほかにぶつけようがなかったからです。
 しかし時が来て、語られていた言葉通りの結果に試練が終わった時、これは忍耐の力の有無では無く、ただ神の側の愛とあわれみであったことがわかりました。「災い転じて福となる」ではありませんが、神は試練を通して、これまでとは比較にならない祝福と、天への希望を与えてくださったのです。

 では最後に忍耐とは、を定義してみたいと思います。忍耐とは、神がしてくださっているものです。では私たちにできることとは何でしょうか?それは私のように文句をぶっつけるにしても、どのようなことがあっても神に背を向けないということ。日々御言葉に学び、デボーションという神との交わりを欠かさないということです。神様だけが一縷の望みでしたし、それにしがみつくしか方法がなかったのです。もし、つらいと感じたこの試練がなければ、私の高慢な自我は打ち砕かれることはなかったことでしょう。神は最善のことしかおできになれないことを、堅く堅く、信じていただきたいと思うのです。

2015年4月12日 (日)

あなたは愛されている

 ローマ 8章37~39節
 信仰とか感謝について学んできましたが、それらの元はと言えばみな神から、神の愛とその十字架から来るものです。ですから私たちの一切の源について最後は触れなければならないでしょう。この神の愛からは、この世の何ものをもってしても、死も、いのちも、いかなるこの世の力ある者も、また親でも子でも夫婦であっても、私たちを引き離すことはできないのです。その神の愛について、です。

 人は、どんなにすばらしいものであっても、時間が経てば「すばらしかったもの」になり、感謝も大切さもぬるく鈍くなってしまいます。神はそのことをご存知であり、常に私たちの内に変化を……それは成長とか深化とかいうものですが、導いてくださろうとしておられます。ただし、日々の食事のように、常にデボーションや神との交わりを欠かさずいる、と言うことがその前提なのです。これは努力というものではありません。例えて言えば、生命維持に必要な生理的なものであるからです。

 それはあなた自身のセルフイメージ(自己像)と密接な関係があります。あなたは神から愛されているという確かな実感がお有りでしょうか?人間の恋愛においても、片思いでは愛が成立しないように、神との関係においても一方的なものでは交わりというものは成立できません。ただこれだけは確かなことです。神はあなたがどう思おうと、あなたを愛しておられ、愛し続けておられるということです。しかしあなたが拒否するのにストーカーのようには対応されません。つきまとうものはサタンです。神は遠慮深く、慎ましやかなお方なのです。あなたが神を主として「これまでを心から悔い改め、十字架のあなたに委ね、従います」と告白するまでは。そして神に自分を明け渡し、従う人にはあるセルフイメージがあります。それは自分の人生を肯定しているということです。これまでのように、ひどく落ち込むことは皆無になります。ありのままを愛してくださるキリストの愛が、支えてくれるからです。むろん高慢とは無縁です。なにがしかの力があるとすれば、それはキリストから来ているからです。

 不動の神の愛が、その人の全生涯を価値あるものへと変えました。最悪と思えていた自分の過去の失敗、傷、欠点も、むしろ感謝と愛おしいものに変えられました。なぜなら、それなくば未だにキリストを求め、知ることもなく、第一にすることができなかったからです。この世で富や能力の高い人たちは、それゆえ神に近づく恵のためには、大きな壁を目前に置くこととなり、かえって不幸であるとすら言えます。すべての価値、目標はキリストにあるのですから。

2015年4月 5日 (日)

感謝と聞き従いと信仰

1テサロニケ 5章16~18節 
 本日は「感謝」がテーマですが、群れで語られている信仰の概説を二つの図にし、さらに私なりの図を三つ目に表してみました。こうしてみますと「感謝」とは「信仰」Photoを使う、働かせる、用いるといった実際的な運用であり、その中身であることがわかります。聞き従うという判断がまずあり、それを受けてすべてについて感謝する行いをするのです。

 聖書の人々、アベルは信仰の行為をして不当にも殺されました。ノアはどんな嘲りや屈辱にも耐え て箱舟を作りました。アブラハムは行き先を知らずに旅に出て、海の砂、空の星ほどに一つの国民を与えると約束されました。しかし世で神から与えられたのは、妻を葬るためのマクペラの洞窟だけでした。イサクもヤコブも同様でした。長い奴隷生活をはさんで約束の成就の時が来るまで、彼らが得ていたものとは、神の言葉だけでした。彼らは世においては寄留者であって、輝かしい永遠の神の都の一員である彼らには、この世はふさわしいところではなかった(ヘブル11:38)のです。彼らは信仰の人として世を終えて死んだのです。

 この原則は今も変わりません。地上は私たちにふさわしい所ではなPhoto_2いのです。この地上で命があるのは、神の計画があり、託された使命があるからです。どんな使命であろうと命ある限り、いつも喜び、絶えず祈り、ますます「すべてのことを感謝する」証し人として一層立って行きましょう。この「すべてのことを感謝する」のは、私たちが世に属するものではない、いわば天に帰る存在であることの証明です。信仰が無い人は世のことしか見えず、悪いことを感謝できません。

 しかしこうした感謝の結果、世において祝福されること、報われることも起こってくるでしょう。しかしこれは第一義ではなく、副次的なもの、添えてPhoto_3与えられるもの(マタイ6:33)なのです。世での報いを求めて感謝することは、本末転倒です。神は必ず答えてくださいますが、それは神様の方法であって、人間の想像を超えた最善の計画であることを知るべきです。もう一度言いますが、まず聞き従いという判断があって、感謝という行いがあります。結果は、神の御心次第なのです。

 これからリバイバルの時代が始まって行きますが、それはあらゆる天変地異や戦争が起こり、人類の半分が死んでいく恐るべき時代を背景に、全世界を救う神の栄光が現れるのです。ですから感謝がなければ信仰を保ってはいけないだろうと言われているのです。みなさん、すべてを心から感謝いたしましょ

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