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2015年5月

2015年5月31日 (日)

復活のからだを待ち望む

マタイ  22章30節 
 4月の初め頃、母の葬儀を最後に、私たち夫婦の親世代は居なくなりました。次はいよいよ私たちの番なのです。テニスではよく若い人たちと対戦しますが、自分の身体の衰えを痛感させられるのです。人間の体は朽ちて行き、体の命には必ず終わりがあるのです。そこで私以上の同世代の人たちは、このことを、つまり自分たちの番が近いことを、どのように受けとめているのかが私は気になっていました。

 多くの方は「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿をモットーに、この事に触れない、考えないことに徹しているようです。
 六十才は人生の花。七十才でお迎えがきたら「留守だ」と言え。八十才でお迎えがきたら「まだ早すぎる」と言え。九十才でお迎えがきたら「そう急ぐな」と言え・・・・。笑い話なのか、あるいは切実なのかちょっと曖昧ですが、こんな禅僧の言葉まであります。
 こうして避け、逃げまくっている内に突然自分の番が来ると言うのは、せっかくの永遠の命を失う最悪の選択であって、全くもって取り返しようのつかない愚かな選択なのです。古来、逃げて勝った例はありません。事は永遠のいのちの行き先の問題であり、今ある命以上に大切な重要事項であります。

神を信じ・子としていただける恵み
 この世の人々は今見えているこの世のことしか関心がありません。しかし若さを失い、皺が寄り、体が衰えて行き、最後にはどんなにお金を積んだとしても買い戻すことができない死がやって来ます。その時、外見や富、権力に頼っていた人たちは、どんな希望が残されているのしょうか?人は必ず死に、そして死後の世界にまで、世のものを何一つ持って行くことは出来ないなのです。

 死に打ち勝つのは、あらゆる宗教の中でも、唯一キリスト教だけであると私は信じています。聖書を通しての神が真の神であり、人類四千年以上の歴史がそれを証明しているのです。文化をはぐくみ、科学を生み、基本的人権を唱えました。これらはすべてキリスト教から生まれたものであり、世界の先進国中、キリスト教国でないのは、この日本だけなのです。
 私たちの罪のために十字架に架かってくださった、この神の愛の事実を信じる者は、罪が赦され、永遠のいのちを与えられ、その魂は天国に行く、つまり滅びません。ただし今の血肉の体は土からできたものだから、その目的を終えて土に還ります。その後、霊は肉体を卒業して霊の体になって、フワフワ状態になるのではなく、時が来た時、それまでの血肉の体に勝る、つまりもう老化しない、永遠の新しい体(御霊の体)が与えられるのです。もちろんこれは聖書でイエス様が仰ったように、もう男女の体ではありません。滅ばないので生殖が必要なく、天使の体のようです。また食べることも、瞬間移動することもできます。何という恵みでしょうか。

 真のクリスチャンは、この血肉の体の服を脱ぐ事(肉体の死)を「ハレルヤ!」と喜び、天に凱旋したと讃えられます。それゆえ天の御父の元に行ける日を、こころから待ち焦がれているクリスチャンは多いのです。彼らにとって、肉体の死は天国へ行け、また御霊の体をいただける恵みの時なのです。まだクリスチャンになっておられない方、どうか信じて、ご一緒に天国へ参りましょう。

2015年5月24日 (日)

文字は殺し御霊は生かす

Ⅱコリント 3章6節
 「文字は」とありますが、これは律法のことを指しています。「御霊」とは文字通りの意味ですが、信仰をも表しています。この箇所は小冊子「主に用いられる女性たちよ・・・」で幾度も引用された、中心的な聖書箇所です。しかしこの聖書の御言葉は、謝って用いられることがあるので、今回は正しく学びたいと思います。

 ここはその本でP牧師が語られている通り、文字とは律法のことであり、御霊とは聖霊、または聖霊によるところの信仰のことであります。意訳すれば「モーセがイスラエルの民に与えた律法は、結局はイスラエルは守ることができず、救われがたい罪を覚えさせる結果になった。逆に言えばそのために律法はあった。しかし十字架と復活によって、信じる者はその罪が赦され、聖霊が与えられ、信仰という新しい律法によって命を得、新たに生きる者とされる」という意味になるでしょう。P牧師の本では、女性が牧師に立つという事柄を通し、聖書という律法とぶつかる場合、信仰優先という新たな律法を論証されました。

 しかし本日申し上げたいことは、文字と称された律法の本質とは何であったのか?と言うことです。福音書においてこのことを富める若人や律法学者がイエス様に質問したりしています。それは「心を尽くし、思いを尽くして神を愛する」ことと「隣人を愛する」と言うことでした。この律法の心というものを結局イスラエルは失敗するのですが、なぜ文字では死んだものが、御霊は生かすのでありましょうか? 答えははっきりしています。聖霊によらなければ、自分の心の中に住まう聖霊、その方に自分を明け渡し、自分の主として支配していただかなければ、誰も「心を尽くし、思いを尽くして神を愛する」ことができなかった、と言うことなのです。

 みなさん、イエス・キリストを信じなければスタートにも立っておらず、話になりません。信じた者には必ずご聖霊様、神様がお住みになってくださるのです。と言うことは信じた方は救われ、神の国の国籍を得るのです。ここで注意していただきたいことがあります。みなさんがされた信じる祈り、信仰の告白とは、その方を自分の主として受け入れるというものでした。それが文字通りその人に真実為されていれば、使徒時代のような即座に聖霊のバプテスマ状態となりましょう。しかし今日、「主イエス様、あなたを私の主として信じ、受け入れます」の告白が告白通りでないことがあまりにも多いのです。この私も実はそうでした。自分に死ねない、明け渡せない、これが本日のポイントなのです。どうしたらよいでしょうか? 

 唯一の解決法は心からの悔い改めと、求めの祈りです。ニネベの人々は悔い改めによって、一時的にですが、滅びを免れました。イエス様に先だってバプテスマのヨハネが来たのは、なんのためでしょうか? みなさん、悔い改めなのです。真の悔い改めは、聖霊様に自分を明け渡す土台となるのです。それには悲痛なまでの求めの祈りともなって行くのです。その時、聖霊様はあなたの心の王座に着かれ、あなたをご自分のものとしてくださるのです。これがポイントなのです。アーメン

2015年5月17日 (日)

あなたの信じた通りになるように

マタイ 8章13節  
 ローマ軍の百人隊長とは、ユダヤ人にとっては征服者であり、民族の敵です。それなのに長老たちがそろって代わりに参じる、これは普通のことではありません。この百人隊長は、恩讐をこえ、ユダヤ人から敬われるにふさわしい人でした。カペナウムに現存する会堂遺跡は、少し後の時代のものですが石造りの壮麗なものです。このような公共物を建てるには、財を惜しんではできないことでしょう。奴隷制があった時代、ひとりのしもべに過ぎない者を癒そうとする百人隊長、当時としては希有な人物でありました。イエスに対しても「お呼び立てする資格は私にはありません」と謙遜の限りを尽くしました。イエスの神的権威を正しく認識し、へりくだった姿勢をとったのはユダヤ人ではなく、外国人の百人隊長でした。これは福音がそれを待ち望んでいたユダヤ人にではなく、全世界の異邦人にもたらされていく予表ともなりました。

 神から賞賛された百人隊長は、財産にこだわらず、人をその国籍や身分では見ていませんでした。また直接見て確かめたわけでもないのに、確かに神からのものを正しく見分けることができました。人間という存在は、自分の取り柄(価値)をいつも求め、絶えず高めようとしています。財産とか、血筋とか、社会的な地位、美貌・・・・などです。このように世に価値を見ることは、世を超え、世に属さない神を理解することはできませんし、その恵みに与ることができないのです。 

「あなたの信じたとおりになるように」とイエスは言われました。私たちはいったい何を信じて自分の拠り所としているのでしょうか?信じているものは世なのか、それとも神の国なのでしょうか?世に価値を見出す者は、信じたその通りの結果になることでしょう。   

しかしクリスチャンはこの世ではなく、ただ神を見、御心だけを求めます。世での肉体の命を終えた次に来る神の国が本命なのです。それ故に、殉教すら厭いません。百人隊長は祭司や律法学者のように、世の自分の富を守ることが大切ではありませんでした。キリストに対する態度から、百人隊長は単に癒やしだけでなく、神の力、救いをも見て取っていたと私は思います。長老たちを言葉だけをいただきに遣わす、そこに信仰の告白を見るのです。「あなたの信じたとおりになるように」とは「あなたがたの信仰のとおりになれ(マタイ9:29)」のことです。   

全世界を失っても補って余りある永遠の命があるクリスチャンが、なぜ自己否定的になるのでしょうか。隠しようもない喜びの笑顔があふれて当然なのです。老化して体が衰えるならば、天の国での新しい体を待ち望む喜びがますます強くなることでしょう。あなたの信じた通りに、あなたの信仰の通りになります。
 私たちは世のものではなく、神の国に生きる者であることを、どれほど感謝して良いかわからないのです。ハレルヤ

2015年5月10日 (日)

イエスは人であり、神である

ルカ 1章37節 

 今日は三位一体の神、その中で特にイエス・キリストという人であり神であったお方について学んで参ります。なぜならキリスト教の成立当初から現代に至るまで、サタンによる攻撃の核心部分だからです。ですからクリスチャンはこの点について、はっきりした確信を持っていなければなりません。

 まず数あるメシア預言から、「処女降誕」の一つに絞って取り上げましょう。キリストが生まれる七百年前の人物であったイザヤは「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける(イザヤ7:14)」と、処女から神が生まれることを預言しています。
 これはイエス・キリストにおてい成就しました。信ずべき根拠は第一に、マリヤに語られたように「神にとって不可能なことは一つもない」からです。神にとって、処女から子どもを生まれさせることぐらい、何でもないことでしょう。次に神の子が、人間の営みによって生まれるということはあり得ないのです。肉から生まれるものは肉であり、滅びるものです。しかし神は永遠です。マリヤの胎から生まれはしましたが、神の子であり、罪を負った人間の子ではありませんでした。さらにマリヤやヨセフの系図を見るなら、ダビデの家系からメシアが誕生するという預言が成就していることがわかります。

 次に過越の祭という面から見ていきましょう。エジプトを脱出してからというもの、イスラエルの最大イベントは過越の祭です。傷もしみもない、よく吟味された一歳前の小羊を祭りの前日に犠牲にします。イエスの十字架は、祭りの前日の金曜日でした。祭りの後では意味がありません。イエスは人ではなかったので、ただの一度も罪を犯されなかった人でありましたから、完全なる犠牲の小羊でした。

 全人類の罪の身代わりは、罪ある人間では値しません。石狩峠での永野信夫のように、何人か、数十人までは助けることが、あるいはできるかもしれません。ところが宇宙を造り、地球を造り、人類を創られた神が身代わりの犠牲となってくださる、不足があるどころか恐れ多いことです。(参:1コリント5:7 )この点からもイエスというお方が、人であると同時に神であらねばなりませんでした。神の子であったからこそ、私たちの罪が赦され、天国入りを許されるのです。
 また人でもあったということは、私たちの弱さをつぶさに知っておられると言うことです。決して裏切らないと誓ったペテロを単に赦すだけでなく、使徒のリーダーとして最後まで用いられた神は、全能の父なる神の右の座に座し、常に私たちを執りなしてくださっているのです。

 人であると同時に神であった、このことを常識や既知の知識・理解を基に賢明に判断できる人々は、この理解しがたいことを信じることができません。しかし神にしか希望がない人々は、喜びと希望を持って、この超自然的な事実を受け入れることができるのです。

2015年5月 3日 (日)

すべての問題を解決する

ルカ 1章37節
 皆さんの中には「心配性」の人は居ませんか?
はい、ほぼ全員ですね。ところが私たちの主イエス様は、聖書で見る限り、心配をまったくされないお方でした。それどころか、嵐で舟が沈みそうな時、不安に駆られた弟子たちが眠っておられたイエス様を起こして「沈みそうです」と言うと、「信仰の薄い者たち」と嘆かれました。
 私たちにはイエス様のような奇跡は起こせないとしても、イエス様のような心配から解放されることはできるのです。少なくとも主を起こして「信仰の薄い」と言われないようにしたいものです。心配性の人は御心ではありません。
 ヨハネの福音書 5章30節を読みますと、「わたしは自分からは何ごとも行うことができません」と、無能力者であることを言われました。イエス様は神様から聞いて、その通りのことを行っておられたのです。ですから私たちも神様から聞いてそれを行う時、何ごともできるし、不安や恐れはないのです。
 サタンは昔から常套手段として、不安に陥れて私たちを支配しようとしてきました。私たちは、この不安に対して、毅然たる戦い、対応をしなければなりません。サタンは言うのです。「お前はこれまで失敗の連続だったし、これからもそうだ。お前はダメ人間なのだぞ」と。人間にはその解決の方法がないので、彼らやられっぱなしになるのですが、神にはあるのです。
サタンがどう言おうと、確かにこれまではその通りだったかも知れないが、しかし私は大丈夫だ、問題がないと言えるのです。
例えば私は緑内障があって、医師がこう言ったとします。「中村さん、あなたの緑内障でしばらくしたら、もう目が見えなくなりますよ。あなたの見える人生はおしまいです」と言われたとしても、全然問題ではないのです。「ああ、どうしよう」と不安になったとしても、まったく解決には役立たないのです。そればかりか、神様が許されたことなのですから、使命を果たすのに、問題ではないからなのです。人生は自分のものだと思っているために、不安に落とされてしまうのです。あなたの人生はいったい誰ののものになっているのでしょうか?

昨日、渋滞で遅れてしまうことが確実な状況が生じました。そうすると過去の傷がたくさん思い出されてしまうのです。遅れて会場がわからなくなってしまったり、準備が整わなくなったので叱られたり・・・・。すると細道に入って行こうかとか、信号を無理して突っ込もうか、などとしたくなってしまうのです。幸い感謝するということを知っていますから、感謝すると祈るよう示され、祈ると「大丈夫です、安心して行きなさい」と示されるのでした。それでもう無理なことはやめて、安心して十分遅れで着いたのです。私は本当に弱い人間です。みなさん、待っていてくださって、笑顔で迎えてくださいました。
帰り道、大小二つの事故を見ました。そしてあの時、不安に駆られて無理していたら、と思い出し、不安に陥ることの危険を改めて思いました。この時は祈りによってでしたが、不安というのは破滅させ、何一つ生産的なことを生じさせません。ですから心配や不安、恐れの感情に対して、自分の力で解決しようとするのは止めましょう。
 私たちには力がないのです。
しかし、私たちの内に住んでおられるイエス様の力に頼るなら、すべての問題は解決するのです。様々な問題がいかに起きようと、私たちには何の問題もありません。必ず私たちは大丈夫なんです。信じる者にはお一人お一人に聖霊様が内住されておられるのです。自分が主だと思っているから不安や恐れにやられているのです。しかし住んでいてくださっている聖霊様は三位一体の神、聖霊なる神に従えばよいのです。今日のみ言葉、神にとって不可能なことは何もないのです。問題があるとすれば、あなたの肉だけが、つまり主を第一にできないあなたが問題なだけなのです。

 すべての問題は神の栄光のためにあるのです。過去の私の大きな問題、これさえなければ・・・・と思うものが、私の最大の宝物、人生の大勝利になりました。これがなかった今の私はないのです。神に自分を明け渡したその瞬間から、私たちには何の問題も存在することはないのです。アーメンでしょうか?

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