文字は殺し御霊は生かす
† Ⅱコリント 3章6節
「文字は」とありますが、これは律法のことを指しています。「御霊」とは文字通りの意味ですが、信仰をも表しています。この箇所は小冊子「主に用いられる女性たちよ・・・」で幾度も引用された、中心的な聖書箇所です。しかしこの聖書の御言葉は、謝って用いられることがあるので、今回は正しく学びたいと思います。
ここはその本でP牧師が語られている通り、文字とは律法のことであり、御霊とは聖霊、または聖霊によるところの信仰のことであります。意訳すれば「モーセがイスラエルの民に与えた律法は、結局はイスラエルは守ることができず、救われがたい罪を覚えさせる結果になった。逆に言えばそのために律法はあった。しかし十字架と復活によって、信じる者はその罪が赦され、聖霊が与えられ、信仰という新しい律法によって命を得、新たに生きる者とされる」という意味になるでしょう。P牧師の本では、女性が牧師に立つという事柄を通し、聖書という律法とぶつかる場合、信仰優先という新たな律法を論証されました。
しかし本日申し上げたいことは、文字と称された律法の本質とは何であったのか?と言うことです。福音書においてこのことを富める若人や律法学者がイエス様に質問したりしています。それは「心を尽くし、思いを尽くして神を愛する」ことと「隣人を愛する」と言うことでした。この律法の心というものを結局イスラエルは失敗するのですが、なぜ文字では死んだものが、御霊は生かすのでありましょうか? 答えははっきりしています。聖霊によらなければ、自分の心の中に住まう聖霊、その方に自分を明け渡し、自分の主として支配していただかなければ、誰も「心を尽くし、思いを尽くして神を愛する」ことができなかった、と言うことなのです。
みなさん、イエス・キリストを信じなければスタートにも立っておらず、話になりません。信じた者には必ずご聖霊様、神様がお住みになってくださるのです。と言うことは信じた方は救われ、神の国の国籍を得るのです。ここで注意していただきたいことがあります。みなさんがされた信じる祈り、信仰の告白とは、その方を自分の主として受け入れるというものでした。それが文字通りその人に真実為されていれば、使徒時代のような即座に聖霊のバプテスマ状態となりましょう。しかし今日、「主イエス様、あなたを私の主として信じ、受け入れます」の告白が告白通りでないことがあまりにも多いのです。この私も実はそうでした。自分に死ねない、明け渡せない、これが本日のポイントなのです。どうしたらよいでしょうか?
唯一の解決法は心からの悔い改めと、求めの祈りです。ニネベの人々は悔い改めによって、一時的にですが、滅びを免れました。イエス様に先だってバプテスマのヨハネが来たのは、なんのためでしょうか? みなさん、悔い改めなのです。真の悔い改めは、聖霊様に自分を明け渡す土台となるのです。それには悲痛なまでの求めの祈りともなって行くのです。その時、聖霊様はあなたの心の王座に着かれ、あなたをご自分のものとしてくださるのです。これがポイントなのです。アーメン
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