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2015年6月

2015年6月28日 (日)

キリストの証人となる

使徒 1章 8節
 ここでのwitnessとは「知っている」という意味で、目撃者であり、それを証言する者と訳されます。重要なことは、何についての証人なのかということです。眠っている者の初穂として、御霊の体で復活されたキリストのことについて、見た事を証言する人という意味になります。

 直訳的な意味に限れば、二千年前にユダヤに生きていて、かつ復活したキリストを目撃した五百人以上の一人になっていなければなりません(1コリ15:6)。しかし使徒パウロは目撃者どころか、この時は迫害者でした。それなのに彼は、キリストの偉大な証人となりました。それはステパノを殺しに飽き足らず、国外のダマスコにまで迫害の手を伸ばした時、神がパウロに呼びかけ、自らを現されたからでした。つまり「証人」とは神を体験した人、体験した事実をもって証言する、これが証人という意味になるのです。

 クリスチャンであれば、聖霊は誰にでも内住されています。一部の人には信じたと同時に聖霊のバプテスマを受けた方もおられるでしょう。が、ほとんどの人には聖霊の内住と聖霊のバプテスマと間にタイムラグがあります。福音派に属していた私は、そもそも「聖霊のバプテスマ」すら知らず、求めず三十年近くを過ごしました。その時、どうして教会とこの信仰に力がないのかを嘆いておりました。

今ははっきりと理由が分かります。体験としての神を知らず、証人としての力がなかったからです。神様を伝聞・推定の中で語るなら、それは確信がなく、力がないのです。

 わたしの証人となります。(使徒1:8) ここで重要なのは、いかにして神を体験するか?ということです。これは全くもって人間の都合で得られるものではありません。風は思いのままに吹く・・・・100%神様側の主権で為されるものですが、一つ言えることは、神様を知りたい、とくに「聖霊のバプテスマを体験したい」と人間が願うことは、御心であると言うことです。ですから求め続けていくならば、試練を通されることもあるでしょうが、必ず与えられるという確信を持つ必要があります。他の人に祈ってもらうことも良いと思いますが、本人の求め、信仰、祈りが決定的に重要です。

 私たちは証人です。証人としての力を求め、また受け続けて参りましょう。

2015年6月21日 (日)

二人の愛する父

ヨハネ 14章23節
 今日は父の日です。私たちと天の父との関係も、地上の父との関係を無視しては語ることができないことでしょう。いい意味でも悪い意味でも、です。私の場合幸いなことに、地上の父は天の父へかける橋のような、すばらしい父でした。私の母は夫を語る時、いつも「偉い人だったんじゃけぇ」と言い、たとえ亡くなってもずっと夫を慕い続けました。それは単なる夫を愛するというより、心から尊敬を込めての態度でした。

 始めそれは、父が田舎町とはいえ、何代町長が代わろうと、収入役とか助役を現職で死ぬまで勤め、実際現職で亡くなった時は町をあげての葬儀になったのですが、そういう世的な偉さであろうと思っていました。
しかし母が亡くなってから改めてわかってきたことは、どうもそういう外面的な意味だけでもなかったということです。

 父の死後、かなりの大人になって初めて知ったのですが、父は通常の肺の1/4しかありませんでした。残された小さな肺と、その原因となった結核の後遺症に生涯、苦しんだのです。この結核の病には一つの秘密がありました。父は四人の男兄弟で、三男でした。末弟は病死し、先の戦争では三人とも出征しました。戦争が終わって三兄弟はみな生きて帰ってこれました。ところがすでに結婚していた長兄の妻は結核にかかり、一人看取られることなく、ただ死を待っている状態でした。復員した父はその介護を進んで引き受け、そのために父にも結核は感染したのです。

 わたしはこの父を母と同様尊敬します。この上にもう一人の父を私は重ねて思い出します。この父は先の父以上の素晴らしい父です。天のです。どのようなお人なのか、ルカ伝15章の放蕩息子のたとえ話から見てみましょう。20節「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き口づけした。」

 この弟息子は財産の生前贈与を要求し、放蕩という結果を予測しながらも父は言う通りにしてやります。案の定息子は異国の地で放蕩に身を持ちくずし、ユダヤ人としてはあり得ない不浄の豚小屋で飢え、豚の餌まで食べようとしますが、その時心から悔い改め「もう息子と呼ばれる資格はない」、使用人でもいいから帰ろうと決心します。

 父は息子をどれほど心配して待っていたことでしょうか。それは家まで遠かったのに、使用人でもなく、父が先ず見つけたということから分かります。帰りをを待ち続けて、毎日見はり続けていたのです。世の父ならばとうに見放したところでしょうが、この父は息子の帰還を、あらゆる財産に勝って求めていたことは明らかです。そしてボロボロになって、忌むべき豚の臭いを全身に発散させながら帰ってきた息子を、「走り寄って抱き、喜び口づけ」までするのです。狂喜してる、そんな感じです。

 悔い改めた謙遜さはどのようにして得られるのでしょうか? 試練や困難に遭って、はじめて自分が気づくものです。この息子を父がどんなに望んでいたことでしょうか。喜んでも、喜び過ぎではありません。その点では忠実であったかもしれない長兄ですら、及ばないのです。
天の父が求めておられるのは、真に悔い改めた魂です。父なる神はそれを求めておられるのであり、子としてくださるのです。子は天の全てを受け取るのです。

2015年6月14日 (日)

試練とともに脱出の道も

Ⅰコリント 10章13節

 旧約聖書の主な登場人物で、神に祝福された人物、例えばアブラハム・ヨブ・ヤコブ・ヨセフ(創世37:3-11、42:9)・モーセ・ダビデなど、主な登場は例外なく試練を受けています。それも生半可なものではありませんでした。ヨセフを一例にとります。神がヨセフが、兄弟の妬みを買うような夢を見させたのでしょうか?そのためにヨセフは兄弟から殺されそうになり、奴隷として売られ、囚人となり、明日をも知れぬ命の年月を過ごすことになります。彼の17歳から30歳までの人生で一番輝かしい時代は、恐ろしい試練のまっただ中だったのです。

 神はこのようになることをご存じなかったのでしょうか? いえ、もちろんご存知でした。神に知られていないことは何一つないのです。ご存知でありながら、御手の内に試練を許されたのです。ヨセフが通った苦しみは、後の世界一豊かな国の宰相としての祝福と、神がアブラハムに約束された星の数、浜辺の砂という、強大な民の実現のために必要だったからです。苦しみには、神の選びと目的、そして祝福という人間には謀ることのできない計画がありました。

  試練はただ神が愛される子に限定されて、大きな祝福となります。そうでなければ、困難や苦しめに遭うと、苦しみはただの苦しみだけに終わり、ねじくれた心だけが残るマイナスに終わる事でしょう。しかし神ご自身が与えられた試練というものは、聖書(ロマ8:28)で約束されている通り、必ず益とされる結果になります。神を愛するなら、すべてが益とされるのです。

 それは私の体験からも確かに言えることです。 その試練の渦中では、神に向かって大声でわめき、ぶつくさ文句を放ちつつ、神に「どうしてですか!」というような日々を過ごしました。であったとしても、神に向かう限り、たしなめられることもありましたが、決して神はお怒りになられません。忍耐して聞いてくださいました。私たちに手放すべきものがあり、それを全部自分で気がついて捨て去るまで、共に苦しみながらその時を待っていてくださった、そうはっきり今は分かるのです。試練を通されてはじめて、気づくこと、これがなければ今の私はなかった、これは<神の愛>なのだと。  

試練の目的は明快です。聖書Ⅰペテ4:19を挙げたいと思います。「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」このためです。

 私たちはどのようにして自分を捨て、神のものとなることができるのでしょうか?自分を十字架につけ、神に捧げることが可能となるのでしょうか?一生懸命努力して、でしょうか?その願いは認めますが、自分の力では不可能です。答えはただ一つ、神が与えてくださる試練に依って、可能となるなのです。ですからこれは神に愛されている印、愛なのです。

2015年6月 7日 (日)

言葉と愛

ヨハネ 1章14節 

 ヨハネによる福音書は、福音書中、神の御人柄、御性質が最もわかるものとなっています。何しろヨハネはイエス様から最も愛された側近中の側近でしたから。
 ヨハネによる福音書の冒頭「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」ですが、これは三位一体であるキリストの神性の宣言だと言えます。キリスト教成立当初からキリストの神性に対しては多くの異なった見解‐異端に対して、ヨハネははっきりとキリストは神であったと言っているのです。ですからマリヤの処女懐胎は、神が人の形をとって世に来られる、その必然の出来事だったと言えます。

 重要なことは、なぜ人となって「私たちの間に住まわれ」なければならなかったのか、ということです。人となられ、人の姿をして、神とはどういうものかをショーウィンドーのようにして人々に見せるためだけではありません。そのような了見ではみな躓いてしまったことでしょう。ポイントはキリストは何のために来られ、何を語られ、行われたかにあります。もちろん目的は全人類の救いにあります。しかしそれが有効になるためには、この方が私のための神であったと、ひとりひとりが自ら気づかなければなりません。信仰はキリストのことば、その愛にあると私は思うのです。

 四つの福音書を読んで気づかせられることは、イエスという歴史上実在の人物なのに、とても人間とは思えないことです。例えばマタイ5章3節 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」の言葉です。このようなイエスの言葉一つ一つに、私は雷に打たれ、立ち尽くし、「この人こそ神であった」とつい呻き声が出て来るのです。人間を超えた全く異なる視点、考え方がキリストの言葉にあります。

 神様の御性質の中心は、「愛」だと言われます。では「愛」とはどういうものでしょうか? 少年期、青年期の自分は、愛が分かっていませんでした。「これが愛だ」と思っていたのは自己中心的な愛で、未熟であって単に、思い込んでのぼせ上がったようなものでした。自己中心的な愛は、多くの人にも言えることですが、それは聖書の言う愛ではありません。そしてその先にあるのは、空しさであり、滅びです。普通に言えば、人間の愛とは、冷えるものなのです。

「真の愛」とはどういうものでしょうか?十字架のキリストに答えを見ることができます。神が私たちの罪の贖いのために死んでくださった。この愛は私たちを救い、永遠のいのちに至らせる力があります。悔い改めと罪の赦しが与えられ、神である聖霊が私たちに共に住んでくださる・・・・。これが真の愛であり、愛の力です。この愛に私たちは真に生かされるのです。これがヨハネが最も伝えたいことだった、そう私は思います。

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