言葉と愛
† ヨハネ 1章14節
ヨハネによる福音書は、福音書中、神の御人柄、御性質が最もわかるものとなっています。何しろヨハネはイエス様から最も愛された側近中の側近でしたから。
ヨハネによる福音書の冒頭「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」ですが、これは三位一体であるキリストの神性の宣言だと言えます。キリスト教成立当初からキリストの神性に対しては多くの異なった見解‐異端に対して、ヨハネははっきりとキリストは神であったと言っているのです。ですからマリヤの処女懐胎は、神が人の形をとって世に来られる、その必然の出来事だったと言えます。
重要なことは、なぜ人となって「私たちの間に住まわれ」なければならなかったのか、ということです。人となられ、人の姿をして、神とはどういうものかをショーウィンドーのようにして人々に見せるためだけではありません。そのような了見ではみな躓いてしまったことでしょう。ポイントはキリストは何のために来られ、何を語られ、行われたかにあります。もちろん目的は全人類の救いにあります。しかしそれが有効になるためには、この方が私のための神であったと、ひとりひとりが自ら気づかなければなりません。信仰はキリストのことば、その愛にあると私は思うのです。
四つの福音書を読んで気づかせられることは、イエスという歴史上実在の人物なのに、とても人間とは思えないことです。例えばマタイ5章3節 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」の言葉です。このようなイエスの言葉一つ一つに、私は雷に打たれ、立ち尽くし、「この人こそ神であった」とつい呻き声が出て来るのです。人間を超えた全く異なる視点、考え方がキリストの言葉にあります。
神様の御性質の中心は、「愛」だと言われます。では「愛」とはどういうものでしょうか? 少年期、青年期の自分は、愛が分かっていませんでした。「これが愛だ」と思っていたのは自己中心的な愛で、未熟であって単に、思い込んでのぼせ上がったようなものでした。自己中心的な愛は、多くの人にも言えることですが、それは聖書の言う愛ではありません。そしてその先にあるのは、空しさであり、滅びです。普通に言えば、人間の愛とは、冷えるものなのです。
「真の愛」とはどういうものでしょうか?十字架のキリストに答えを見ることができます。神が私たちの罪の贖いのために死んでくださった。この愛は私たちを救い、永遠のいのちに至らせる力があります。悔い改めと罪の赦しが与えられ、神である聖霊が私たちに共に住んでくださる・・・・。これが真の愛であり、愛の力です。この愛に私たちは真に生かされるのです。これがヨハネが最も伝えたいことだった、そう私は思います。
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