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2015年6月21日 (日)

二人の愛する父

ヨハネ 14章23節
 今日は父の日です。私たちと天の父との関係も、地上の父との関係を無視しては語ることができないことでしょう。いい意味でも悪い意味でも、です。私の場合幸いなことに、地上の父は天の父へかける橋のような、すばらしい父でした。私の母は夫を語る時、いつも「偉い人だったんじゃけぇ」と言い、たとえ亡くなってもずっと夫を慕い続けました。それは単なる夫を愛するというより、心から尊敬を込めての態度でした。

 始めそれは、父が田舎町とはいえ、何代町長が代わろうと、収入役とか助役を現職で死ぬまで勤め、実際現職で亡くなった時は町をあげての葬儀になったのですが、そういう世的な偉さであろうと思っていました。
しかし母が亡くなってから改めてわかってきたことは、どうもそういう外面的な意味だけでもなかったということです。

 父の死後、かなりの大人になって初めて知ったのですが、父は通常の肺の1/4しかありませんでした。残された小さな肺と、その原因となった結核の後遺症に生涯、苦しんだのです。この結核の病には一つの秘密がありました。父は四人の男兄弟で、三男でした。末弟は病死し、先の戦争では三人とも出征しました。戦争が終わって三兄弟はみな生きて帰ってこれました。ところがすでに結婚していた長兄の妻は結核にかかり、一人看取られることなく、ただ死を待っている状態でした。復員した父はその介護を進んで引き受け、そのために父にも結核は感染したのです。

 わたしはこの父を母と同様尊敬します。この上にもう一人の父を私は重ねて思い出します。この父は先の父以上の素晴らしい父です。天のです。どのようなお人なのか、ルカ伝15章の放蕩息子のたとえ話から見てみましょう。20節「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き口づけした。」

 この弟息子は財産の生前贈与を要求し、放蕩という結果を予測しながらも父は言う通りにしてやります。案の定息子は異国の地で放蕩に身を持ちくずし、ユダヤ人としてはあり得ない不浄の豚小屋で飢え、豚の餌まで食べようとしますが、その時心から悔い改め「もう息子と呼ばれる資格はない」、使用人でもいいから帰ろうと決心します。

 父は息子をどれほど心配して待っていたことでしょうか。それは家まで遠かったのに、使用人でもなく、父が先ず見つけたということから分かります。帰りをを待ち続けて、毎日見はり続けていたのです。世の父ならばとうに見放したところでしょうが、この父は息子の帰還を、あらゆる財産に勝って求めていたことは明らかです。そしてボロボロになって、忌むべき豚の臭いを全身に発散させながら帰ってきた息子を、「走り寄って抱き、喜び口づけ」までするのです。狂喜してる、そんな感じです。

 悔い改めた謙遜さはどのようにして得られるのでしょうか? 試練や困難に遭って、はじめて自分が気づくものです。この息子を父がどんなに望んでいたことでしょうか。喜んでも、喜び過ぎではありません。その点では忠実であったかもしれない長兄ですら、及ばないのです。
天の父が求めておられるのは、真に悔い改めた魂です。父なる神はそれを求めておられるのであり、子としてくださるのです。子は天の全てを受け取るのです。

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