試練とともに脱出の道も
† Ⅰコリント 10章13節
旧約聖書の主な登場人物で、神に祝福された人物、例えばアブラハム・ヨブ・ヤコブ・ヨセフ(創世37:3-11、42:9)・モーセ・ダビデなど、主な登場は例外なく試練を受けています。それも生半可なものではありませんでした。ヨセフを一例にとります。神がヨセフが、兄弟の妬みを買うような夢を見させたのでしょうか?そのためにヨセフは兄弟から殺されそうになり、奴隷として売られ、囚人となり、明日をも知れぬ命の年月を過ごすことになります。彼の17歳から30歳までの人生で一番輝かしい時代は、恐ろしい試練のまっただ中だったのです。
神はこのようになることをご存じなかったのでしょうか? いえ、もちろんご存知でした。神に知られていないことは何一つないのです。ご存知でありながら、御手の内に試練を許されたのです。ヨセフが通った苦しみは、後の世界一豊かな国の宰相としての祝福と、神がアブラハムに約束された星の数、浜辺の砂という、強大な民の実現のために必要だったからです。苦しみには、神の選びと目的、そして祝福という人間には謀ることのできない計画がありました。
試練はただ神が愛される子に限定されて、大きな祝福となります。そうでなければ、困難や苦しめに遭うと、苦しみはただの苦しみだけに終わり、ねじくれた心だけが残るマイナスに終わる事でしょう。しかし神ご自身が与えられた試練というものは、聖書(ロマ8:28)で約束されている通り、必ず益とされる結果になります。神を愛するなら、すべてが益とされるのです。
それは私の体験からも確かに言えることです。 その試練の渦中では、神に向かって大声でわめき、ぶつくさ文句を放ちつつ、神に「どうしてですか!」というような日々を過ごしました。であったとしても、神に向かう限り、たしなめられることもありましたが、決して神はお怒りになられません。忍耐して聞いてくださいました。私たちに手放すべきものがあり、それを全部自分で気がついて捨て去るまで、共に苦しみながらその時を待っていてくださった、そうはっきり今は分かるのです。試練を通されてはじめて、気づくこと、これがなければ今の私はなかった、これは<神の愛>なのだと。
試練の目的は明快です。聖書Ⅰペテ4:19を挙げたいと思います。「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行うにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい」このためです。
私たちはどのようにして自分を捨て、神のものとなることができるのでしょうか?自分を十字架につけ、神に捧げることが可能となるのでしょうか?一生懸命努力して、でしょうか?その願いは認めますが、自分の力では不可能です。答えはただ一つ、神が与えてくださる試練に依って、可能となるなのです。ですからこれは神に愛されている印、愛なのです。
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