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2015年7月

2015年7月26日 (日)

主はあなたの中におられる

 イザヤ 12章6節
 罪とは、「的外れ」の意味です。話が違うのですが、クリスチャンが 「神の声を聞けない」 原因の一つに、この「的外れ」があるのではないでしょうか。

「神は語られるし、その声を聞きたい」と願われるのは当然です。ですから一生懸命耳を澄まし、聞こうとしておられるのだとしたら、それはかなり困難なことでしょう。確かに直接神の声を聞いた人がいます。使徒パウロは突然、天からの光が彼を巡り照らし、地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。

ケン岡村牧師は自暴自棄になってロスで車をぶっ飛ばしていたら、雷のような「Go to the Church !」の声を聞きました。注意すべきはこれらの人は確かに神の声を聞いたのですが、その時、神との通話回路がなかった人々だったということです。

一人は熱心なユダヤ教徒でクリスチャンの迫害者でしたし、もう一人は信仰を失っていたクリスチャンでした。つまり外部からの、目を覚ますような実際の声かけが必要な人々でした。ところが神が内住されているクリスチャンには、神はもっといろいろな方法で語りかけられることがおできになれます。

 神は外の、どこかにおられるということではなく、実にあなたの中に存在され、あなたの中に神の国を作っておられます。ですから主を求めるのに、自分自身の中に主を求めるのがポイントなのです。

 そのように志向すると、多くの信者の心に<激しいこみ上げてくるもの>が沸いて来るようです。それは「悔い改め」です。昨日も偶然妻がそのようなことを言い出し始めましたし、私に至っては常にそうなのです。考えてみると、これはある当然なのです。主の声を聞こうとするならば、人というものは多くの場合、普段の生活で聞き従いが不十分です。自分の良かれと思うような生活・・・主を主とした歩みではなく・・・をしているわけですから、先ず以て悔い改める必要があるのです。

 バプテスマのヨハネもそのために世に来られました。ダニエルたち預言者も、神に聞く前には深い悔い改めの祈りを捧げています。こころから神の前に悔い改めるならば、私たちに赦されない罪はなく、たとえ一時的にせよ私たちは神と交われるきよい存在としていただけるのです。神は聖ですから、神と交わって聞く者も聖とされなければならないのです。

 「聞く」ことに関して、先ず自分自身の内におられる神に聞こうとすること。悔い改めるというより、悔い改めに導かれること。その深い臨在の中に、優しく静かに語りかけられるあわれみ深い主の声があります。

<祈り>
主よ、どうかあなたが私の思うこと、願うことの中心でありますように。私の肉が望むことではなく、ただあなたの御心を願わせてください。良いしもべがいつも主人の意図に気づき、先回りして行うように、あなたの御心を行う者とならせてください。

2015年7月19日 (日)

携挙されるための三つのポイント

 黙示録 6章1~2節 
                          (パトモス派遣19日主日礼拝 パウロ秋元牧師メッセージ)
 携挙は黙示録の七年のまん中に起こり、残り三年半の大患難時代に入ろうとする直前の七つ目のラッパが鳴った時(黙11:15ー19)に起こります。これはクリスチャンの最初の裁きでもありますが、次の大患難時代のためにクリスチャンを守る事でもあります。もし残されたとしても、悔い改めた上でのセカンドチャンスがあります。とはいえ、携挙されたいのは、みなさん同じ希望のことと思います。

 それでは携挙されるためにはどうしたらよいのでしょうか。それがマタイ24章から26章に三つのポイントを挙げて述べてあります。ここで前提となること、次に個々人への三つのポイントを挙げることができます。先ず教会ですが、どの教会に属しているのかが重要です。一言で言えば黙示録の七つの教会、携挙されるフィラデルフィア教会に属していることが重要になります。また、そのほかの教会であっても「勝利を得る」少数の人がいます。またフィラデルフィア教会だからと言って、必ずしも全員とは限らないことでしょう。個々人が携挙されるために以下の三点にポイントに注意して行きたいと思います。

 次に祈りも大切です。自分が携挙されるのに「ふさわしくない者」であることを認識し、携挙してもらえるよう神に祈り求めること。また天国に行っても、宝が一つもない人や、火の中をくぐっての人、つまり火傷を負いながら来る人さえいますので、そうはならないように祈ってまいりましょう。次は携挙の3ポイントです。

 一つは神から委ねられたことを忠実に果たしていることです。どんな良いことであっても、神から委ねられていないことをしても意味がありません。ですから自分に何が委ねられているかよく分からない人は、今すべきことをしながら、忍耐して待っていてください。そして神から来た、その時には与えられたその使命を忠実に全うしてください。できないことでも、それは先刻神がご承知なのです。神に頼れば不可能はありません。そういう意味でいわば、できない子ばかりを神様は集めておられるようなところがあります。しかしそれが通常の状態かも知れません。

 次に十人の乙女のたとえ話のように、聖霊に満たされ続けることです。それは御心を行い続けることだと言っても良いでしょう。

 最後の三つ目として、主から与えられた賜物を持ってそれを用いることです。賜物には生来持っていた肉の賜物もあるでしょうし、神に聞き従う時に現される賜物もあることでしょう。この賜物を用いたかどうかが大きなポイントになって行きます。

 以上、携挙されるためのポイントは聖書にはっきりしているのですから、熱心に求め祈って行きましょう。大切なことは今の自分を見ることではなく、神を見、神に祈り求めることなのです。

2015年7月12日 (日)

私を新しくしてください

 詩篇 51篇10節
 唯一の真の神を信じるクリスチャンでありながら、なかなか「古い人」を脱ぎ捨てられない人がいます。意識するかしないかは別として、心の奥底ではきっとそのことで悩んでおられると推察します。これはそのような兄弟姉妹への一つのお奨めです。

 私たちが行く天の御国は、古い人のような肉的な人間の行くところではありません。もしそうであったなら、たぶんそこは思い描いていた所とは違うことでしょう。私たちの目標は神の国、天の都エルサレムに住まうことですから、これは取り返しのつかない失敗です。

 昨日の横浜カリスマ聖会で秋元牧師は<だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリ5:17)>をもとに、次のように仰いました。「それなのに、新しくなっていない」人がいます。どうすれば新しくなれるか、その方法として以下の二つのことを挙げられました。

1、<心の一新によって自分を変えなさい。(ロマ12:2)>を適用し、思索を自分でなく、信仰に立って一新すること。
2、隠れて粉を打っていたギデオンが、神に聞き従って勇者へと一変したように、「聞き従いをしない と変化は起こらない」ので、神に聞き従うこと。

 私はこれに補足の意味で少し付け加えをさせていただきます。

A:サタンはだましの名人です。他人をだますより、宿主であるその人の自分とは?という自己像を偽ってより高く認識させ、ために常に不安定な精神状態に陥れています。このサタンの策略を見抜き、ありのままの自分をキリストの愛によって受け入れる必要があります。嘘は現実の自分とのギャップをカバーしようとして、つまり自分を守ろうとして生まれ、自分を正当化するものです。サタンと決別する決心が、新しい人に踏み出す土台となることでしょう。自分に変わる力がなくてもよいのです。ただサタンから神へスイッチする選択だけが必要なのです。

B:新しくなる力は私たちの内にはありませんが、神にはそれができるのです。このことを信じ、神に祈り求め続ける、これが私たちの力です。

 ダビデはバテ・シェバとの罪を指摘され、自分の罪深さを心から悔い改めた結果、神によってきよい心と新しい霊が与えられることを切望しました。この徹底した罪の悔い改めの祈りこそ、新しくされる熱意の原動力です。あなたにはそれがありますか?

2015年7月 5日 (日)

聞く者は生きる

ヨハネ 5章25節 
 本日はクリスチャン対象です。イエス・キリストを信じ、バプテスマを受けた後、私たちは信仰生活をいかに過ごすべきなのでしょうか?
 「証人となる」「神を愛する」「礼拝し、賛美する」などが挙げられるでしょう。私は「神に聞き従う」ことを一番に挙げたいと思います。

 でも同感の兄弟姉妹でも実際のところ「本当に自分は神に聞いて従っている生活をしているのだろうか」と自らを疑問に感じている方がおられるかも知れません。今朝の聖句にあるように、「聞く者は生きる」とあります。神の声を聞いていないからと言って、救いが無効になるわけでも、神の国に行けないわけでもありません。ただ、御霊の実を結ぶと言った、真のクリスチャンとして生きているとは言えない、そういう意味であります。

 御霊の実のあらわれとは愛、喜び、平安、寛容などですが、神を信じていながら、内には落胆や嫉妬、憤り、敵意というものがあり、不安な状態が続くようでしたら、御霊の実どころか、肉が心にあるのですから、悔い改めや新生が求められるでしょう。それでは聞き従う以前の、自分の思うままの歩み、肉の生活をしていると言うことになります。「聞く者は生きる」とある、クリスチャン生活の醍醐味は、自分の生きたい人生を生きるのではなく、それを捨てて神の計画、御心に従って与えられた使命に生き、全うする人生です。

 ではキリストが父なる神に従われたように、私たちもまた文字通り神を神とし、主として崇め、そのしもべとなって、聞き従う生活を始めるためにはどのようにしたらよいのでしょうか?
まず「神は今もひとりひとりに語られる」ということを信じなければなりません。突然サムエルのように、またパウロのように、また最近のある牧師の証し「Go to the Churh !」と神は語られたりもしますが、神の言葉を聞く多くの場合、本人が語られると信じているか、どうかで格段の差が生じてくるようです。

 私たちクリスチャンは神の子です。父は子に語ろうとされており、子も父に聞き従おうと静まって、熱心に耳を傾け、実際に聞こうとしなければなりません。これは「みこころ」なのです。ただ、子に罪があってはなかなか開通しません。本人も気づかないような罪が隠されて障壁となっている場合もあるでしょう。悔い改めがそのポイントですし、「語ってください」と祈り続ける時、神の方で原因を示されることもあります。熱心に祈り求め、示されることをするという、謙虚さ従順さも必要です。私たちにはわかっていなくとも、神は私たちの弱さも、問題も、罪もなにもかもご存知です。願い求めるならば、みこころですから、一つ一つ神は取り扱ってくださり、必ず応えてくださると私は信じます。祈祷院なども、場合によってはお勧めします。

 最後に私たちは自分のために生きるのではなく、神の栄光と誉れ、その賛美のために生かされています。「神に聞き従う」とはそのための証人として用いられることであり、どんな些細なことでも自分のためではないことを確認しておきたいと思います。

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