主はあなたの中におられる
† イザヤ 12章6節
罪とは、「的外れ」の意味です。話が違うのですが、クリスチャンが 「神の声を聞けない」 原因の一つに、この「的外れ」があるのではないでしょうか。
「神は語られるし、その声を聞きたい」と願われるのは当然です。ですから一生懸命耳を澄まし、聞こうとしておられるのだとしたら、それはかなり困難なことでしょう。確かに直接神の声を聞いた人がいます。使徒パウロは突然、天からの光が彼を巡り照らし、地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。
ケン岡村牧師は自暴自棄になってロスで車をぶっ飛ばしていたら、雷のような「Go to the Church !」の声を聞きました。注意すべきはこれらの人は確かに神の声を聞いたのですが、その時、神との通話回路がなかった人々だったということです。
一人は熱心なユダヤ教徒でクリスチャンの迫害者でしたし、もう一人は信仰を失っていたクリスチャンでした。つまり外部からの、目を覚ますような実際の声かけが必要な人々でした。ところが神が内住されているクリスチャンには、神はもっといろいろな方法で語りかけられることがおできになれます。
神は外の、どこかにおられるということではなく、実にあなたの中に存在され、あなたの中に神の国を作っておられます。ですから主を求めるのに、自分自身の中に主を求めるのがポイントなのです。
そのように志向すると、多くの信者の心に<激しいこみ上げてくるもの>が沸いて来るようです。それは「悔い改め」です。昨日も偶然妻がそのようなことを言い出し始めましたし、私に至っては常にそうなのです。考えてみると、これはある当然なのです。主の声を聞こうとするならば、人というものは多くの場合、普段の生活で聞き従いが不十分です。自分の良かれと思うような生活・・・主を主とした歩みではなく・・・をしているわけですから、先ず以て悔い改める必要があるのです。
バプテスマのヨハネもそのために世に来られました。ダニエルたち預言者も、神に聞く前には深い悔い改めの祈りを捧げています。こころから神の前に悔い改めるならば、私たちに赦されない罪はなく、たとえ一時的にせよ私たちは神と交われるきよい存在としていただけるのです。神は聖ですから、神と交わって聞く者も聖とされなければならないのです。
「聞く」ことに関して、先ず自分自身の内におられる神に聞こうとすること。悔い改めるというより、悔い改めに導かれること。その深い臨在の中に、優しく静かに語りかけられるあわれみ深い主の声があります。
<祈り>
主よ、どうかあなたが私の思うこと、願うことの中心でありますように。私の肉が望むことではなく、ただあなたの御心を願わせてください。良いしもべがいつも主人の意図に気づき、先回りして行うように、あなたの御心を行う者とならせてください。
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