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2015年8月

2015年8月30日 (日)

神の和解を受け入れなさい

2コリント 5章20節
 私たちというものは、信じるまでは世の罪にとらわれている奴隷でした。そのことすら、神を信じ、罪から解放されるまではわかりませんでした。それまで普通のことだと思っていた世は、よりすぐれたもの、すぐれた人に価値をつけ、値を払います。誰もが他者よりすぐれた能力を得ようと、我が子を有名私学に入れようとし、競争から競争へと走っています。そのレースに勝てば人はおごり高ぶり、負ければ落ち込むかねたむ世界です。プロ野球でも実社会でも、高い能力を身につけ、成績をあげるならば、そのような優れた人間に対して高い賞賛と報酬が与えられるのは、世の習いです。こうして、他より優れていなければならない、そのような価値観、人間観にとらわれていたのです。  

 ところが一方で人はみな平等であり、その命に貴賤はないとは言われています。しかし平凡な自分しか発見できない人にとって、自分の存在に十分な価値を見出すことができないのではないでしょうか。と言うことは、ほとんどの人が失望の谷底にあえいでいるのがこの世の常なのです。世の人は夢も希望もない・・・・これが世の現実なのでしょう。  罪についても同様なことが言えます。私たちは良心に従って良いことをしたいのですが、それを行う力が私たちにはほとんどありません。律法によれば、このような私たちは誰ひとり例外なく罪に定められ、裁かれる存在です。世とそれに属するものに、夢も希望もなく、ついには皆死によって永遠の裁きに遭うのです。

 本日の聖書箇所、「神の和解を受け入れなさい」の「和解」だけを聞けば、まるで双方が互いに「ごめんなさい」と謝り合うことのように聞こえますが、ここで和解という言葉には、「神が罪人の私たちのために、御子(イエス・キリストは神の子ですから、罪を犯されることはありませんでした)を身代わりにして死に(十字架に)渡されたので、それを信じる者は罪なき者にされるという素晴らしい意味があります。

 十字架によって私たちは罪の縄目から解放され、自由が与えられるのです。例えば少し前、二千円あまり入っていたナナコカードをセブンでなくし、すぐさま使われてしまいました。しかし私たちは千円を公園で見つけても、自分のものにはしませんでした。良心の力は信じる前とあまり変わっていないのですが、行う力が異なっているのです。信じる者には聖霊の神の力が働き、罪の力から解放されているからです。   幟旗を立て、熱心に人々に伝道して町々を回ることも素晴らしいのですが、先ず世と罪とから解放された、その証し人として立てられているのです。神からの和解を受け入れ、大胆に恐れずに、主イエスによる自由と解放、永遠への希望を証ししましょう。

2015年8月23日 (日)

愛を追い求めなさい

1コリント 13章~14章1節 
 昔からこの第1コリント13章は有名な聖書箇所で、結婚式でよく読み上げられる所です。  
愛は寛容、親切、ねたまず・・・・自慢せず、高慢でなく、礼儀正しい。自分の利益を求めず、怒らず、受けた悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜ぶ。すべてをがまんし、すべてを信じすべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ。愛は決して絶えることがない。

 若い時分は、これを聞くたびに「愛って素晴らしい! これを目指して自分たちも頑張ろう!」と感激して思ったのですが、親となり、お爺ちゃんと呼ばれても相応な年代になると、現実は愛とほど遠く、到底不可能なことだと思うようになって来ます。
 しかしこれは大変な勘違い、見当違いでした。特に8節「愛は決して絶えることがありません」を考えてみましょう。どうして他の賜物に比べて愛は絶えることがないのでしょうか。実は「愛」とは、賜物と同様に神から与えられるものなのです。自分の努力で素晴らしい「愛」ある人間になろうとしていた私は、大変な思い違いをしていました。愛は神から生まれ、与えられるものなのです。ですから14章の頭に、「愛を追い求めなさい」と神が勧めておられるのです。神は愛そのものであり、私たちは神から「愛」を注いでいただく存在なのです。ですから熱心に「神からの愛」を追い求める存在でもあります。この求めの祈りは御心ですから、聞かれるのです。

 こうして愛は、人間が自分のものとして誇ることのできないものであって、神の愛という1コリント13章の神の完全な御性質が現されていくのです。
 ここで一つ疑問が出てきます。異言や預言などの聖霊の賜物はキリストの再臨以降は廃れるのに比し、愛はなぜ絶えることがない(いつまでも続く)のでしょうか。再臨以後、神様を目前にし直接神様からお言葉を聞けるのですから、これまでのような人を介しての預言などは必要なく、廃れるのは当たり前です。では「愛」は、どうして廃れることなく、続いて行くのでしょうか?  

 これは「愛」と言うものが分かっていないための疑問です。聖霊の賜物は神から受けたなら、そのまま人間の解釈を交えず人々に伝えていくもので、宣教という明確な目的があるものです。ですから再臨という福音宣教の必要が終了した時点では不要になります。けれどもエデンの園に神が日毎に訪れてくださったように、愛には終わりとか、面倒とか省略とかはなく、互いに「進化する交わり」が本質です。愛は神から来て、私たちはその愛を受け取るだけでなく、同時に拙Jンmkいながらも神にお返して行くという、双方向のものです。ですから聖霊の賜物のような一方通行のものとは異なり、交流して生まれてくる愛は、決して廃れず、絶えることもないのです。

神の愛を、熱心に追い求め続けましょう!

2015年8月16日 (日)

しるしと不思議

使徒 4章30節
 5月20日にリバイバルが始まりました。私はこの日本という国、この国の民がかたくなにされたのは、イスラエルの民のように、このリバイバルが来る時までだと思っておりました。ではこの日本の民にどのようにしてリバイバルが来るのでしょうか? それは大いなる聖霊の賜物、「しるしと不思議」によってです。

日本は整えられた学校制度と教育熱心な国民性があり、何ごとにも知性と冷静さを重んじ、工夫をしないではおられない国民性でもあります。つまり見えること、実証的なことには関心がありますが、逆に見えないことは容易に信じようとはしません。別の言葉で言い代えると、頭で考える習慣があり、見えることだけを信じ、非宗教的であります。このような民が神を信じるには、一度見える世界、各人の知性の限界を超えた、見えない世界というものを見れば、それがその人の魂へのチャレンジとなります。つまり誰もが認めるしかない神の奇跡によって、日本人の知性を打ち破るのです。さすれば日本人は霊的な存在、(神またはサタン)が本当に存在していることを認めるか、さもなくば、受け入れられないので何とかしてそれが奇跡でない理屈を考えるしかありません。つまり日本の後の雨、リバイバルは、聖霊の賜物が開かれることと大いに関連すると私は示されているのです。

 では「しるし不思議」を聖書で見て参りましょう。使徒の3章2節に「美しの門」の前に、一人の足なえの男が座らせてもらっていました。美しの門とはエルサレムの街に入る七つの門でもなく、また神殿の丘に入る門ではなく、神殿そのものの入り口にあたる門だと言われています。つまり神殿に入るユダヤ人は残らずこの男を見ていると察してもよいのであり、その男が瞬時にイエス・キリストの名によって癒やされたで、何と五千人の人が救われました。これは使徒による伝道史上、最大の成果となりました。

 また弟子たちも、この「しるしと不思議の力」を使徒4章30節にある通り、切に祈り求めています。
「・・・御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした・・・とあります。祈り求めるならば、御心ならば、これは与えられるのです。
そして今が、5月20日以後の今が、まさに、<御心の時>なのです。  

2015年8月 9日 (日)

キリストについて行く

マルコ 8章34節

 人はそれぞれ違います。違うはずなのに、なぜか人の願いはみな、似ています。私は少年の時から夢想をしながら寝る癖がありました。状況設定は変わっても、ストーリーはいつも同じでした。恵まれた育ちの若者が、愛に飢え渇き、それをゲットするというものでした。
 みなさん。できたら自分が、国王や貴族とは行かなくても、少なくともまあまあの家庭の出で、スタイルが良く美形で、その上才能や美点を持った人物で生まれたかったとは思われなかったでしょうか? 映画や小説の主人公はそんなヒーロー、ヒロインばかりです。
 神様が私を造られた際、不出来な作品、欠陥品なのに間違ってこの世に送り出されてしまったのはありません。考えてみてください。もし全員が理想通りでしたら、世の中の人は工場製品のように、みな同じ顔、同じ容姿の人間ばかりになっていたことでしょう(笑い)。

 むかしむかし、人がまだこの世に存在しないとき、この上もなく美しい素晴らしい大天使が造られました。明けの明星とも呼ばれ、全天使たちの1/3も任されていました。しかし彼は外見や能力は見事で完璧だったために、やがて、本人も気づいていなかったと思うのですが、ある問題を背負うことになりました。高慢という心です。人より優れている長所や能力を所有していて、それに頼るな、むしろそれ故謙遜になれ、なんてことは、至難の業、むしろ不可能です。だから美人って冷たい感じがするじゃあありませんか。スタイルが良い人は、それが分からないような服装で押し通すことはまずないと思います。謙遜を忘れ、神のようになろうとした美の大天使は、多くの天使を引き連れてサタンとなりました。肉の体を持つ私たち人間は、どうやって高慢から逃れられるのでしょうか。
 新約聖書に「富める若人」の話が出てきます。律法に忠実で、永遠のいのちを求めていた彼も、結局キリストに従うことができませんでした。財産を捨てることができませんでした。この世と天とに兼ね仕えることはできません。恵まれて生まれれば、その財産を自分から捨てることは、至難の業で本当に困難です。

 自分は貧しいと思う人、よかったですね。天国はその人のものです。世での富を捨てる障害は軽いのです。自分には欠けがあると思う人、それは素晴らしいことです。これさえなかったら、とずっと思い続けていたそれが、実は永遠のいのちを得るあなたの宝です。神は決して不出来の作品、欠けのあるものを造られたのではなく、あなたを高慢から救い、罪を悔い改めさせるための神の天与の欠けなのです。永遠のいのちは、「心の貧しい者は幸いなり、天国は彼らのものである」の御言葉の通りなのです。自分を捨て、自分の罪という十字架を負って、キリストについて行きましょう。

2015年8月 2日 (日)

神の言葉を受ける

エペソ 6章12~17節

 神の言葉を、心から熱心に求め、受けとっていく。これは私たちが天へ行くために、御心をなすためです。このたびの白馬では「律法と信仰」が語られました。ここで信仰とは私たちが神の言葉を受け、御心を為していくことなのです。

 またあるメッセージで語られたのですが、クリスチャンホームの子弟にとって、「聖書は神の言葉である」という疑いようのない結論があって、その結論は疑いようのない真実ではあっても、問題はその実体がなかなか自分に入ってこない・・・・いわば建前と本音のジレンマに苦しむのだそうです。しかし今回のパトモス派遣で聖霊がふれてくださり、直後、聖書のどこを開いても語りかけばかりで、ジレンマがまったく解決したという証しがありました。真剣に悩み苦しみ、神に求めるならばそれは必ず応えられ、神はふれてくださるのです。

 次のようなことを言うクリスチャンがいます。聖書は一部は神の言葉かも知れないが、全部ではない。また聖書の創世記の冒頭部分は当時のメソポタミヤ地方の神話の焼き直しである。さらには聖書にはぶつかる内容があるので、不完全で神の言葉ではない・・・・etc。これらの事をどんなに聞かされても、神を体験した者はみじんも動じることはありません。なぜなら彼らは知らないで、「ただ自分の考えを言っているだけ」であることが分かるからです。聖書は神の言葉である、これは聖書そのものが言っている真実ですが、神の声を聞き、神が聖書を通して語ってくださる事を体験すれば、「事実」としてこの真理を了解するのです。

「百聞は一見にしかず」と言う言葉があります。心から神を求め、神がそれに応えてくださるとき、私たちは例外なく新生を体験します。それならなぜ神は、私たちになかなか簡単にはふれてくださらないのでしょう。答えは簡単です。私たちが自分に絶望し、生きる力を失って、こころから神に救いを求めるようになるまで、神は私たちに試練を許され、忍耐の限りを尽くして待っておられるからです。もしいい加減な気持ちで神の言葉にふれ、受け入れないなら、神をないがしろにした事になります。心から分かるタイミングこそ「神の時」です。

 神様は私たちを天に連れて行きたいのです。しかし人間の側で神を試したり、ただ自分本位な計画や願いに神の力を用いようとしても、その願いは応えられないことでしょう。「天国へ行きたい」、しかし罪の悔い改めもなく、ただそこがよさそうだから、地獄がこわいから、では決して神はふれてくださらないことでしょう。うわべだけで熱心に神を求めても無駄です。神は心の中をすべてお見通される方なのです。

 もしあなたが、心から願い、何ものにも勝って求めるならば、あなたは幸いです。ふれてくださる時は、神の国は、遠くないからです。言葉を受けることであなたは心を一新されます。あなたの力によってではなく、神の力によって変えられることを知るでしょう。

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