神の和解を受け入れなさい
† 2コリント 5章20節
私たちというものは、信じるまでは世の罪にとらわれている奴隷でした。そのことすら、神を信じ、罪から解放されるまではわかりませんでした。それまで普通のことだと思っていた世は、よりすぐれたもの、すぐれた人に価値をつけ、値を払います。誰もが他者よりすぐれた能力を得ようと、我が子を有名私学に入れようとし、競争から競争へと走っています。そのレースに勝てば人はおごり高ぶり、負ければ落ち込むかねたむ世界です。プロ野球でも実社会でも、高い能力を身につけ、成績をあげるならば、そのような優れた人間に対して高い賞賛と報酬が与えられるのは、世の習いです。こうして、他より優れていなければならない、そのような価値観、人間観にとらわれていたのです。
ところが一方で人はみな平等であり、その命に貴賤はないとは言われています。しかし平凡な自分しか発見できない人にとって、自分の存在に十分な価値を見出すことができないのではないでしょうか。と言うことは、ほとんどの人が失望の谷底にあえいでいるのがこの世の常なのです。世の人は夢も希望もない・・・・これが世の現実なのでしょう。 罪についても同様なことが言えます。私たちは良心に従って良いことをしたいのですが、それを行う力が私たちにはほとんどありません。律法によれば、このような私たちは誰ひとり例外なく罪に定められ、裁かれる存在です。世とそれに属するものに、夢も希望もなく、ついには皆死によって永遠の裁きに遭うのです。
本日の聖書箇所、「神の和解を受け入れなさい」の「和解」だけを聞けば、まるで双方が互いに「ごめんなさい」と謝り合うことのように聞こえますが、ここで和解という言葉には、「神が罪人の私たちのために、御子(イエス・キリストは神の子ですから、罪を犯されることはありませんでした)を身代わりにして死に(十字架に)渡されたので、それを信じる者は罪なき者にされるという素晴らしい意味があります。
十字架によって私たちは罪の縄目から解放され、自由が与えられるのです。例えば少し前、二千円あまり入っていたナナコカードをセブンでなくし、すぐさま使われてしまいました。しかし私たちは千円を公園で見つけても、自分のものにはしませんでした。良心の力は信じる前とあまり変わっていないのですが、行う力が異なっているのです。信じる者には聖霊の神の力が働き、罪の力から解放されているからです。 幟旗を立て、熱心に人々に伝道して町々を回ることも素晴らしいのですが、先ず世と罪とから解放された、その証し人として立てられているのです。神からの和解を受け入れ、大胆に恐れずに、主イエスによる自由と解放、永遠への希望を証ししましょう。
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