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2015年9月

2015年9月27日 (日)

偽りは身を滅ぼす

イザヤ 5章18節
ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち。

 私たちクリスチャンには、聖霊なる神が居られます。この方は義なる方、決して罪を犯されない方であり、聖なる方です。したがってこの方に近づき、相見えるためには、罪があっては不可能です。もちろん天国でもそうだと思っています。つまり罪ある者は、神から遠い存在であり、親しくお交わりすることができません。
 しかし私たち人間は皆罪人なのです。罪人がどうやって神に近づくことができるのでしょう・・・・不可能を可能にしたのが十字架であり、神のあわれみです。神とその独り子がタッグマッチを組んでくださって、阻む者に対して勝利してくださったのです。ですから神を信じ、子とされた者は、どんな罪でも心から悔い改めるなら、すべてが赦される特権を有しているのです。
 しかし、自分の罪深さに気づかないようでは、福音の恵みにも与れず、たとえクリスチャンであっても、神を知ることは困難です。悔い改めることができないので、罪が山積みとなっているからです。そのような人の特徴は、自分の梁に気づかないで、人の目のちりには気づくと言うことであります。(ルカ6章、マタイ7章)

 「うそ」に話を戻しましょう。聖霊なる神がおられるなら、うそに良心の呵責を感じますし、主に従おうとして新生していれば、どんなに小さなうそでも明確に「あなたは嘘をついている」と示されます。イエローカードやレッドッカードが提示されるわけです。これは天に罪として、報告されているという感覚になります。非常な苦しみ、辛さがわいてくるので、謝罪しなければ身が持たなくなります。

うそをつく者は、信用されません。しかし人はあなたにうそが少し混じっているから、あなたを信用しない、などとは言ってくれません。心からの友も自分を偽る者、嘘つきにはできないことでしょう。
うそをつく者は偽りで固めているので、真の自分がわかりません。自分が漂流し、すべて相対化しているので、確固たるものが無く、自分が浮き草のように感じます。その結果自殺したりするのです。偽りからは偽りしか生み出されません。
うそは身を滅ぼします。永遠のいのちからも。これが最も大きな損失です。

ただ神によって、この罪は取り払われます。神を信じましょう。そして神に取り扱っていただきましょう。もううそは嫌だ、と。主よ、助けてください。と

2015年9月20日 (日)

権力によらず、能力よらず、私の霊によって

ゼカリヤ 4章6節

「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。

 チャック・スミスというアメリカで用いられた器がいました。牧師になっての十七年間、信徒が減り続け、平日は仕事をして家族を養っていました。ある時義母の葬儀で2週間職場を休むと、戻った職場に机がありません。無断欠席扱いの上、高額の罰金が課せられました。困っていると会社側から役員にならないかという誘いかけがきました。それは朗報のように思えましたが、「牧師を辞めて役員に専念する」という条件がついていたのです。チャックはもう少しの所で、この話に乗るところでした。神様の語りかけがなければ・・・です。

 ちょうどその時、チャックは請求書の山、それは計416ドルだったのですが、それを見ながら経済的な不安で夜も寝れなくなっていました。役員受諾を決める朝になると、旧知の友達から426ドルの献金の知らせがありました。妻と手を取り合って、踊って喜んだのですが、このことで神様からの語りかけを受けます。「彼らがお金を払ってくるとどうして分かる?」 チャックは答えます。「主よ、彼らの言葉は信用できるんです」と。すると主は、次のように語られた。「あなたは必要を満たすというわたしの言葉を握っていたはずだ。だが、あなたが台所で妻とワルツを踊っているのをわたしは見たことがない。あなたが力あふれてわたしを賛美していた姿も見たことがない。しかしあなたは人の言葉をもらった。するとどうだろう、あなたはこのように興奮している。あなたは、一体どちらの言葉の方を信用するのか(収穫の時代P34-38・・・プリスム社)」

 私は何度も読み返し、自分の不信仰を悔い改めました。私たちは目に見える世と肉に属する者ではなく、目には見えないけれども天地万物の創造者、全能を信じるのです。私たちに関しては、神の手に依らないものは何一つなく、それ故神がゆるされたどんな問題や困難であっても、私たちは心から感謝するのです。そうです、実際にすべてを感謝しましょう。

 私たちの教会はこの信仰に立ちます。世の人々が何と言おうと、神の言葉に立った判断をし、実際にその生活を歩むのです。また神の命令を忠実に守ります。神は「互いに愛し合いなさい」と命じられました。仕方なく律法的にするのではなく、新生したクリスチャンとして 「権力によらず、能力によらず、ただ神の霊によって」 仕え合うのです。
 神の愛を流す先として、より弱い人、助けが必要な人に仕えましょう。ただで受けたのだから、ただでお返ししましょう。見せかけだけでなく、一歩会堂に入った途端、ここに神が居られることが分かるような、そんな教会を私は目標にしています。聖霊の賜物はその上に、豊かに注がれていくことでしょう。

2015年9月13日 (日)

私たちはなぜカリスマなのか

Ⅰコリント 12章31節
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。

 私たち主の十字架クリスチャンセンターは、大きくわけて聖霊派の一つ、カリスマ派の教会に分類されます。カリスマ派は聖霊の賜物を用いますので、見分けのつかないプロテスタント教会から、主の十字架もこれまで大いに誤解されて来ました。現在でも検索サイトに、かなり旧聞に属する故なき批判、中傷が残っています。  私自身も30年、福音派で過ごしましたので、そのような根拠なき誤解と偏見で見ていたのです。

 ここで簡単に信仰の唯一の規範、聖書から聖霊の賜物を見ていきましょう。まず、聖書的にはカリスマはまったく正しく、聖書に反しているのはむしろ福音派なのです。
「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。」(1テサ5:19-20)、「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」(1コリ12:31)「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」(1コリ14:1)

 こうして見てみると、聖書は預言などに代表される聖霊の賜物を「危険だ」とか、「逸脱している」、あるいは「期間限定で、すでに終わっている」とは言ってません。逆に「求めなさい」と言っています。それでもなお、同13章の「すたれる」言葉を用いて「教会が立てられ、聖書が完成したので初代教会以降は賜物は不要」と言う方がいます。それは同じ章の10節の「完全」という言葉が、キリストの再臨であることが理解できていないからです。

 これは聖霊の賜物を用いるカリスマ的教会が、実に聖書的な正しい信仰であること。また聖霊の恵みと力とを、その他の教会がいかに失っているかを物語っているのです。
 確かに今日後の雨が始まっている現在、神は聖霊の賜物を用いてこれを為そうとしておられると私は信じます。なぜなら、聖霊の賜物は教会の成長に大いに関係するからです。
 福音派の教勢は今日、受洗者の減少と退役牧師の増加によって、無牧となり、教会解散へと突き進んでいます。しかし世界と日本にも、成長し大教会となっているのはすべて聖霊派の教会なのです。もはや聖霊の賜物を受け入れない限り、教会は存立し得なくなっているのが現状です。

 そのことは賛美においてもはっきり現れています。文語体の賛美ではなく、生きて働く神にふさわしい誰にでも分かる心からの賛美が、礼拝での臨在に大きな力を発揮しています。
 もう一度確認しますが、賜物の働きを止めていると、受けるべき恵みを止め、祝福が得られません。賜物の一番強力な働きをするものが預言なのです。ですから、よりすぐれた賜物である預言を、私たちは熱心に求めようではありませんか。

2015年9月 6日 (日)

あなたを奉仕者、また証人に任命する

使徒の働き 26章16節
あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

 最近世の人々と親しく話をする機会が幾度かありました。私は少し証しをしておりましたので、40歳にして平和で理想的な家庭が長い時間の末、結局崩壊し、その後献身して牧師になったことを幾人かはご存知でした。しかしなんかの拍子にある人が突然、「中村さんの程度は、大したことではない」と言われ始め、それを聞いてまたある人が「そんなことはない、大変な道を通られた人だ」と擁護をしてくださって、私はその板挟みになって身の置き所が難しくなりました。
 私の経験はよほど特にというわけではありませんが、「大したことではない」と言われてみると、それもよく理解できません。それで理由を本人に聞いてみました。その方がボツリボツリ言うには「自分は統合失調症の母の元で育って、その辛い境遇から必死に生きてきた」と言われるのです。だから自分のそんな経験に比べれば、私が通らされたような事は「大したことではない」と言われたのでした。
 そこで私は「子ども時代の不幸なら、私だって負けてはいないし、大人になって幸せな結婚をした人がよく言うよ」と思ったのです。が、それを言い始めて私は「はっ」としました。

 私が言い始めそうだった不幸比べの話・・・・そんなことを語ったとて、何の意味があるのでしょうか。聖書ではパウロだって、一見似たような自慢話をしています(Ⅱコリ11:23-30)。しかし注意すると、使徒パウロは単に自慢話をしただけではないこと、パウロの本心は後半29cの言葉にあることが分かります。

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」

 父は私が29歳の時亡くなりました。その時のことですが、両親が健在な人からの慰めの言葉は、私の耳に入りませんでした。しかし私のように、親を早くから亡くした人の言葉は私の心に響いたのです。
 パウロにとって、言わば命をかけた実が内輪もめしていたり、また対立のために苦しんでいたとすれば、パウロの心はどれほど痛んだことでしょう。「私の心が激しく痛む」と言った言葉には、深い愛があっての痛みなのです。
 私たちが「不幸比べ」を競うなどとは、なんという愚かなことでありましょうか。神を信じる者にとって、どんな痛みであれ、人ごとではなく、同じ痛みを通された者として、共感し支えながらも、神を信じる者にとっては大きな祝福の土台であり、意味があることを証しすることが使命です。もし愛がなければ、聖霊の賜物によってどんなに癒やしや奇跡を行えたとしても、それは空しいのです。

 すべての問題は神によって解決され益となる、その証人が私たちの使命です。

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