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2015年9月 6日 (日)

あなたを奉仕者、また証人に任命する

使徒の働き 26章16節
あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

 最近世の人々と親しく話をする機会が幾度かありました。私は少し証しをしておりましたので、40歳にして平和で理想的な家庭が長い時間の末、結局崩壊し、その後献身して牧師になったことを幾人かはご存知でした。しかしなんかの拍子にある人が突然、「中村さんの程度は、大したことではない」と言われ始め、それを聞いてまたある人が「そんなことはない、大変な道を通られた人だ」と擁護をしてくださって、私はその板挟みになって身の置き所が難しくなりました。
 私の経験はよほど特にというわけではありませんが、「大したことではない」と言われてみると、それもよく理解できません。それで理由を本人に聞いてみました。その方がボツリボツリ言うには「自分は統合失調症の母の元で育って、その辛い境遇から必死に生きてきた」と言われるのです。だから自分のそんな経験に比べれば、私が通らされたような事は「大したことではない」と言われたのでした。
 そこで私は「子ども時代の不幸なら、私だって負けてはいないし、大人になって幸せな結婚をした人がよく言うよ」と思ったのです。が、それを言い始めて私は「はっ」としました。

 私が言い始めそうだった不幸比べの話・・・・そんなことを語ったとて、何の意味があるのでしょうか。聖書ではパウロだって、一見似たような自慢話をしています(Ⅱコリ11:23-30)。しかし注意すると、使徒パウロは単に自慢話をしただけではないこと、パウロの本心は後半29cの言葉にあることが分かります。

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」

 父は私が29歳の時亡くなりました。その時のことですが、両親が健在な人からの慰めの言葉は、私の耳に入りませんでした。しかし私のように、親を早くから亡くした人の言葉は私の心に響いたのです。
 パウロにとって、言わば命をかけた実が内輪もめしていたり、また対立のために苦しんでいたとすれば、パウロの心はどれほど痛んだことでしょう。「私の心が激しく痛む」と言った言葉には、深い愛があっての痛みなのです。
 私たちが「不幸比べ」を競うなどとは、なんという愚かなことでありましょうか。神を信じる者にとって、どんな痛みであれ、人ごとではなく、同じ痛みを通された者として、共感し支えながらも、神を信じる者にとっては大きな祝福の土台であり、意味があることを証しすることが使命です。もし愛がなければ、聖霊の賜物によってどんなに癒やしや奇跡を行えたとしても、それは空しいのです。

 すべての問題は神によって解決され益となる、その証人が私たちの使命です。

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