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2015年10月

2015年10月25日 (日)

人の願いと神の計画

  詩篇 119篇156節
今朝、夫婦でデボーション(賛美や祈り、聖書を読むこと)していた時のこと、新しい賛美集「風のひびき3」の56番の、「我が宝」を賛美していると「あなたが決めておられるように、私を生かしてくださいー」の言葉にしびれた。というか、この信仰、この霊性にかーっと火が燃え上がるような思いがした。
 この「主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください。」は詩編119番の156節の御言葉で、講解すると、神は神の計画を持ってそれぞれ人を造られ、この世に送り出された。どんな被造物にも、形造られたのは意図があり、その意図通りに使われなければ用を為さない。人も神の特別な被造物だから、造られた通りに用いられるのが最善なのだ。私はある事柄を思い出していた。
 それはまだ私が三十歳ぐらいの時である。クリスチャン同士の結婚だったが、三年経っても子どもが与えられなかった。前妻は当初から子どもが欲しくて欲しくて、しんどい思いをして婦人科にも通ってもいたのだが。
 そんなある時、高名な牧師で名高い老牧師のメッセージに、「子どもは神の祝福である」という一節があった。前妻はそれに反応し「では私は祝福されていないのだ」と受け取った。後で私に泣きついて言うので、私はつい、その後牧師に「子どもができない夫婦は、どう受け取れば良いのでしょう?」と個人的に尋ねた。あれほど高潔な牧師だったはずの老牧師は、いかにも立腹し「ムッ」とされ、返答をせずに立ち去った。これは私の心に軽い傷をつけた出来事であったのだ。
 聖書から見れば、不妊は神の御心と解釈する。サラやラケル、ハンナ、エリサベツの例でも明らかで、閉じられるのに理由があった。だから胎に関しては、神の主権の領域である。与えられないのも神の計画なのだ。
 もし今の私があの質問に遭ったならと考える。即座に「子どもが生まれるのは祝福です。しかし生まれないことにも神の御心であり、それが最善であることが今はわからないだけで、後になれば必ずおわかりになります。またもし御心ならば、この後与えられる結果になるかも知れません。与えられないことも含めて、御心だけが為されるよう、そしてそれが最善であることをお二人で神にお祈りください。」と答えるだろう。
 結婚にも、会社で不遇にも、障害や病についても、すべてのことについて人間が良かれと願っていることについて、同じことが言えるのではないだろうか?
 神の最善の目的と計画があるが、それを当のその人にとって自分の願いとは合致しないと言うか、ほとんど正反対のことが多い。神に従い、神を選び取る者は必ず祝福される。だから冒頭の賛美「あなたが決めておられるように、私を生かしてください」に私は、霊と魂を震わさせられるだ。

2015年10月18日 (日)

クリスチャンの訓練

へブル書 12章5節
わが子よ。主からの懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。
 対局から見れば、これからの終末の時代には患難時代と呼ばれる非常な困難な時代が来ます。それは驚くべき天変地異、天候不順による飢え、人間同士の醜い争いが続き、人の心が荒廃する時代でもあるのです。そして人々はますます罪の深みにはまり、反キリストにつくか、それとも唯一の神に救いを求めるかの究極的な選択を迫られるようになります。リバイバルはこうして始まるのです。
 しかしそのような時代になってからでは、必要とされる多くの導き手、牧師や伝道師を養成することは、たとえて言えば「泥棒を捕らえて縄を綯う」ようなものです。それでリバイバル前の今の時代に、なんとカリスマ派の教会に導かれた皆さん、おわかりでしょうか? みなさんはリバイバルの救いのため、多くの人々を漁る使命がある、言わば召された人々なのです。
 それで個人お一人お一人について言えば、大勢の人々は皆違うように、皆さん自身も異なった場所、育ち、人柄から成り立っています。しかし共通していることがあります。神を信じて救われ、天国へ行けると祝福されたはずなのに、現実はかえってつらい目に遭っているクリスチャンであるということです。それで「これでは話が、約束が違う!」と怒りまくっている人もいると思います。
 かつて私自身もそうであったのですが、今、ちょっと落ち着いて、静まって聞いていただきたいのです。そんなあなたは神に実の子として愛されているからなのだ、と言うことです。訓練には必ず目的があります。なければそれはいじめであり、残酷なものです。しかし神はそのようなお方ではありません。愛なるお方で、そのようなことはしようとしてもおできにはなれません。ではなぜですか? ですからこれはあなたにとってどうしても必要な「神の訓練」であり、またその渦中にあるということです。本日の御言葉から言えば、主は愛する子には必ず試練を許され、例外なくむちを加えられるのです。ですから試練がないということは、逆に言えば、残念ながら神の子どもではなかった、と言うことにもなるのです。
 また兵隊になって、何の訓練も受けずに戦場に出されたとしたら役に立たないどころか、すぐに死体になってしまうことでしょう。ですから訓練と言えども、時には死ぬほどの厳しい訓練が新兵にはあります。私たちの戦いは、人間の力をはるかに超えた、暗闇の支配者に対してなのです。これに勝利するために訓練は、絶対必要なのです。
 そういうわけで試練にあっている方は喜んでください。訓練の結果は明白です。自分の人生は自分のものと考えたり、世のあらゆる肉欲に支配されることなく、聖霊に満たされた御心を第一に行う者となって、神の使命を全うする者となるからです。

2015年10月11日 (日)

まったき愛を求めて

1ヨハネ 4章16節
 神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 タラントのたとえ話で非常に気になるところがあるではありませんか。それは1タラントのしもべのことです。「しもべ」というからには、少なくとも自分ではクリスチャンだと思っていたんでしょう。しかしこの1タラントのしもべのご主人様観は、ほかのしもべとは異なっておりました。

5タラント2タラントを預かったしもべは、額は違っても忠実にオーダー通りに従って商売をしました。従うならば成功するのです。しかし1タラント預かったしもべは「あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です」と返すがてら報告しました。このしもべは別に不正をしたわけではありません。ただ主人の1タラントで商売しなさいというオーダーより、自分の判断を優先させたのです。その結果「地中に埋め、何もしなかった」のです。これはもっとも楽なことで、自分の判断を主人より優ったものにしています。このしもべは主人からタラントを預かるべきではなかったのです。

 このしもべに対して主人はなんと言ったのでしょうか? 当然のことながら、「悪いなまけもののしもべ」「役に立たないしもべ」と評価され、結果として外の暗やみに追い出され、そこで泣いて歯ぎしりすることになりました。「外の暗やみ」とはどこでしょうか? 天国ではありません。
 問題はこの1タラントしもべの主人観です。主人のことを「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だ」と見なしている点です。それで「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠した」と自分の背信行為を正当化して言います。しかしそれは誤りであったことを成功した先の二人のしもべたちが証明しており、1タラントしもべは根拠も理由も立場の正当性もなく、ただ主人を中傷しているだけなのです。

「愛には恐れがありません(Ⅰヨハ 4:18)」と聖書にあります。神は愛です。神を畏れることはあっても、この恐れという言葉を使うことは、クリスチャンにはありません。なぜなら「全き愛は恐れを締め出す」からです。すべてが完全に十字架で赦されている私たちに、恐れはなく、神の愛で満たされています。恐れる者は神に属し、十字架での贖いを受け入れていない、刑罰が下る者です。私たちはまったき愛に生きる者であります。

 天のお父様を怖いと思っておられる方、その方は間違ったお父様観を持ち、間違った関係におられます。一言で言えば罪が残っているので、恐ろしいのです。天のお父様と正しい関係を持ってください。そう祈ってください。

2015年10月 4日 (日)

泣いて歯ぎしりしないため

マタイ 24章22節 
もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

この聖書箇所を読むと、大患難時代が来る前にクリスチャンは携挙て守られる、そう理解できます。教会の中には、携挙を語らない教会があります。これは大きな間違いであり、聖書(Ⅰテサ4:17-18、1コリ15:51-57)では明白にこのことを語っています。私たちはこのことをよく知って、「目を覚まして」備えて置く必要があるのです。

 また携挙のことを語っている教会で、クリスチャン全員が携挙されると説く教会があります。
Ⅰコリ15:51で「私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられ」という<みな変えられ>を根拠にしています。しかしこれは、聖霊の油を切らさないすべてのクリスチャンであって、クリスチャンの皆ではありません。
 なぜでしょうか。それはマタイの24,25章があるからです。ここには三つの喩えが出てきます。その中の一つ「十人の乙女」の喩えですが、十人とも油の灯火は持っていました。つまりかつては聖霊によって輝やいていたクリスチャンでした。しかしそのうちの半分は(実際には割合は不明です)油を切らしてしまい、買いに行っている間に花婿、つまりキリストが来て、灯火を灯していた五人を連れて祝宴に入ってしまいます。これは「携挙」です。Img_7071
 油が切れてしまい、買って戻ってきた五人の娘はどうなったでしょうか? 『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言われ、閉ざされてしまします。つまり携挙されず、残されてこの後に来る大患難時代に信仰の証しをすることになるのです。
 現在は終末は近く、教会単位で携挙されると思いますが、フィラデルフィア教会においてすら全員ではありません。ですから残されて、「外の暗やみで、泣いて歯ぎしり」しないよう、以下の3点を心がけたいと思います。
 マタイ24章後半から、「任された使命を忠実に、裏表なく、誠心誠意仕え、全うするしもべ」となりましょう。与えられた召しを全うしなければなりません。
 次に「聖霊の油を絶やさない」でいた乙女のように、臨在を求め、早天などで常に熱心に祈りましょう。神を愛する者は常に神と交わることを一番にします。聖霊の支配、臨在を常に求めましょう。
 三番目に自分の考え能力ではなく、主に聞き従い、賜物を用いることです。タラントの喩えとは、生来の人の能力や結果だけで評価されないことです。主に聞き従い、主から与えられた賜物を用いて行う聞き従いが重要です。
 携挙されるためのこの三つを、私たちは切に祈り求めるのです。

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