フォト
2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ウェブページ

無料ブログはココログ

« イエスから目を離さない | トップページ | 携挙の3条件とその目的 »

2015年11月22日 (日)

御霊と水と血

Ⅰヨハネ 5章:6~8節
:6 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とに  よって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
:7 あかしするものが三つあります。8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。

 へブル書からこのⅠヨハネにかけては御言葉の宝庫です。特に本日の箇所の前後は年間主題になったり、たびたびメッセージで取り上げられる箇所です。しかし間にあるこの「御霊と水と血」はほとんど取り上げられることがありません。少なくとも私は聞いたことがありません。この前後があまりにも素晴らしいからなのでしょうか。しかしこの箇所をパスせずに立ち止まって聞くならば、ここは素晴らしい所です。

まず「水と血」ですが、大きく四つの諸説がありますが、最も妥当なものを取り上げます。まず水とは、ヨハネからバプテスマ受けられた水のことを意味します。公生涯の始まりはここからでした。その公生涯は十字架上で終結したのです。つまり血とは、十字架で流されたイエスの血潮のことです。またこれは罪の贖い、救いの御業の成就を意味し、ナザレ人イエスがキリスト(メシア)として、つまり救い主としての公生涯が完了したことを意味するのです。

 この水と血という神の子としての見方に、当時もっとも早くそして大きな脅威であったのが、主知主義と呼ばれるグノーシス主義でした。これは歴史上絶えることなく、現代に至るまで続いております。簡単に言うと、キリストの人性は肯定するのですが、神、もしくは神の子であった神性を否定するのです。つまり三位一体の神に対するサタンの攻撃です。もっとも古い使徒信条においてすら、神や聖霊についてより神の子としてのイエスに、その多くの部分が割かれていることからもおわかりでしょう。キリストの昇天から百年も経たないうちに、このグノーシス主義が教会に入り込み、それは人間的な理解で福音を受け取るからなのですが、多くの信者がこのような反キリストの霊にさらわれて行きました。彼らの主張は、バプテスマのヨハネから十字架の死に至るまでは神の特別な力(聖霊の働き)が始まり、十字架の死と共にそれは去ったというものです。むごい罪人の死としてのキリストを受け入れることができなかったのです。これは自分の「罪」が自覚できないので、悔い改めることができない魂に共通した理解であり、滅びに至るサタンであることを示しています。

 ではイエス様が神の子か、それともただの人の子であったのか、それを実証するのはイエスを神の子と信じるクリスチャンです。クリスチャンには必ず聖霊が内住しますので、信じる者を通して聖霊が、イエスは神の子であったと証しするのです。新生したクリスチャンが、罪から解放され、神の愛の実践者として現れるからなのです。これが6節の「あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです」の意味であります。
 素晴らしいこの御言葉に、心から神に感謝したいと思います。

« イエスから目を離さない | トップページ | 携挙の3条件とその目的 »

聖書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/592434/62775648

この記事へのトラックバック一覧です: 御霊と水と血:

« イエスから目を離さない | トップページ | 携挙の3条件とその目的 »