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2015年12月

2015年12月27日 (日)

クリスマスについて(ひれ伏して拝んだ)

マタイ 2章11節

 クリスマスが終わりましたが、今一度クリスマスについて整理しておきたいと思います。このクリスマスには、あまりにも問題点が多いのです。そしてこのことを全クリスチャンは知っておくべきなのです。

 まず聖書には教会が祝っていたという記述がありません。いわB0041912_16435725ば聖書的な根拠がなく、イエスがご自分の誕生日を祝えとも、使徒たちが祝いましょう、などとは一言もありません。誕生の次第だけは詳しく語られてはいます。

 次に羊飼いたちが野宿しておりましたので、季節が正しくありません。逆に12月25日、冬至であることが大問題なのです。この日はローマ時代、異教徒にとって「不滅の太陽の誕生日」でした。しかしことはそれほど単純なものです。キリスト教のはるか以前からエジプトやバビロン、ローマ、ギリシャ、アジアのヒンズーなどでは、偉大な解放者である特別な神の伝説があり、これらを遡っていくと、みな、よく似た一つの物語があるのです。
  名高い神と女神・・・それは母と息子・・・に関わる物語なのです。最初は息子の方が主役で偉大な働きをするのですが、後にはその母が主役になって行くのです。彼に与えられた称号は、インドではヴィシュヌ、つまり「犠牲者の男」「救い主」とか「480pxthe_visit_of_the_wisemen契約の主」として礼拝されていました。そしてその偉大な男の母は次第に礼拝され、やがて処女として崇められるようになり、「天の女王(エレミヤ44:17-19、25)」「アシュタロテ」「イスター」と呼ばれるのです。そして彼女は、偉大な太陽を生んだ存在となるのです。日本においてでも太閤秀吉の母は太陽を腹に宿したとされているぐらいです。そしてその太陽の誕生日が冬至の日なのです。

 つまり「不滅の太陽の誕生日」である12月25とは決して拝んではならない異教の、つまりサタンの最大のお祭りであり、シンボルでした。カトリックが異教と妥協したクリスマスは、決して祝ってはいけないもので、プロテスタントが受け入れてはいけなかったものなのです。そのサタン的な性格は母と子にあります。このことをよく覚えておいてください。

また、この日は解放の日であり、日頃の束縛から解放されて、飲めや歌えの大騒ぎ、羽目を外す日でもありました。これもポイントです。

そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 マタイ 2章11節

本日の聖書箇所です。みなさんに三枚の絵を見せましょう。 初めの二枚には博士たちがイエスを礼拝している絵がありますが、博士たちの礼拝の対象が幼児イエスであるのか、抱いている母であるのか、その区別がつきません。

そしてそれが進んでいくと最後のグレコの絵のように、母であるマリアを礼拝するようになるのです。カトリックは「無原罪のマリアの御宿り」と「聖母マリアの被昇天Grecoim201_2」という聖書とはかけ離れた教義を持っています。これは人間に過ぎないマリアを神とする誤った信仰です。マリアが、まるで太陽を生んだ母のように礼拝されているのです。どうしてこのような誤りが生じたかというと、それは「不滅の太陽の誕生日」という、異教徒最大の信仰に迎合した結果であり、ちょうどイスラエルの民がカナンの地で聖絶を怠り、異民族と融合したために「高き所」を取り除かなかったために堕落したのと酷似します。

もう一度はっきりさせますと、12月25日、不滅の太陽の誕生日に起源を持つクリスマスとは、その母であるマリアを先ほどの三枚の絵のように崇拝させ、神でないものを神とする罪を私たちに犯させるものです。もしどうしてもキリストの御降誕をお祝いしてクリスマスをしたいのなら、せめて少しでも聖書に準じる別の日にしなければなりません。
この日は、サタンの術中にはまる最悪の日、ダメなのです。

2015年12月20日 (日)

失望に終わらない(希望という)信仰

†  ローマ 5章5節
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちの与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 世ではクリスマスが近づいて、その意味もよくはわからずイベントを楽しんでいます。クリスマスは、処女マリヤから救い主イエス・キリストがお生まれになったことを祝う日なのです。この処女から生まれたということ、十字架で死なれ、そして復活されたと言うことを事実として確信するのが私たちの信仰なのです。何よりもまず、救い主が処女から生まれたということを曖昧にしてはいけません。世の人は信じずスルーして祝っていますが、クリスチャンはそうはいきません。少しでも常識がある人間ならば、そんなことは絶対ありえないことを知っているので、狂気の沙汰と思うことでしょう。しかしクリスチャンは信じるのです。

 なぜならイエスが処女から生まれたのでなければ、単なる罪深き一人の人間に過ぎません。それが全人類の罪の身代わりにはなり得ませんし、罪があがなわれないので私たちの復活の希望は空しいのです。逆にイエスは罪のただ中に生まれた姦淫の子、私生児です。知性では到底理解できないことがらでも、信じるからこそ信仰なのです。逆に信仰がないと、神の力はその人に現れることができません。聖書に、神に期待する者は失望に終わることはない、そう書いてあるのですから、信じるのです。ことは人間の知性や理屈・考えに拠らず、ただ神に祈り依り頼むのです。

 しかし中には神に期待し、「どんなに祈っても、祈りが答えられません」と言われる方もおられます。そんな方に処方箋があります。まず「成就しなかった」と思ってらっしゃるようですが、それは本当に時が来たものなのでしょうか? ジョージ・ミュラーという孤児院で有名なイギリスの器は、驚くべき祈りの結果を得ていますが、中でも親族五人がクリスチャンになる祈りを何十年も続けて祈っていました。その中の3人は成就しましたが、残り二人の内の一人はミュラーの臨終の時に救われ、最後の一人はミュラーが天に帰ってからかなり経って救われました。成就しなかったというのは自分が勝手に期限をつけて計られた結果なのかも知れません。

 また御心の祈りではなかったら、神に聞き届けてはいただけません。心か自分を神に捧げ、主に聞き従って、虚心坦懐に祈られてのことだったのでしょうか。
 最後に成就しないことにも、神の深い最善の計画があるからなのかもしれません。神の知恵と計画は図りがたく、私たちの想像をはるかに超えるものです。ですから、すべてを最善に変えられる神を、信頼し続ける決心が大切です。忍耐の価値がここにあります。                                       

2015年12月13日 (日)

あなたの神である主を愛せよ

マルコ 12章30節
 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

 昨日二人の牧師の「送る会」に参列してきました。召された状況はそれぞれであったり、自宅とエルサレムという場所の違いがあったりでしたが、示されたのは「命は神の御手にある」ということです。この命は神の許しなしに生まれることも、死ぬこともありません。
 つまり御心があって私たちは生かされています。その御心とは何でしょう。内容は人それぞれでしょうが、証人という使命を果たすためであります。それが御心の通りに果たせるよう、祈りましょう。

 さて今や世界はユダヤ教の一神教が席巻しております。ユーラシア大陸の西の果て、イスラエルに根付いたアブラハムの神が、ユダヤ教だけでなく、キリスト教、イスラム教の神です。今動画を見ましたように、ヒンズーや仏教なども部分的にはありますが、そのいずれもかつてはキリスト教などが宣べ伝えられた所なのです。日本も戦国時代の末期、当時の中心、西日本を中心にして広範にカトリックですが布教されました。そして今世界は聖書の預言通り、その終焉を、世界の終わりを迎えつつあるのです。つまり、「地の果てにまで(使徒1:8)」がほぼ成就した段階です。この時代にあって日本はイスラエルと似た、異様にクリスチャンの割合が少ない国です。伝道が困難なイスラムの国々にもはるかに劣ります。ですから私たちは、世界の終わり、終末に召された証し人なのです。

 クリチャンには永遠のいのちが与えられており、やがて御霊の体が与えられます。その天国に行くことは凱旋であり、よろこびと勝利の時なのです。しかし神を信じない人にも、千年王国の終わり、さばきが終わったら、痛みや苦しみがわかる二度と滅ばない体が与えられます。つまりすべての人に血肉とは異なる滅ばない体が与えられますが、一方は自由であり、よろこびと感謝の賛美が満ちるところで暮らし、一方は自分の人生を自分の自由のために使い果たした報いとして束縛され、閉じ込められ、苦しめられます。それは滅びとしか言い様がない状態なのです。私たちの身の回りにいる職場の同僚、親族、親兄弟を、一人でもそんな所に行かせたくありません。この国でキリスト教は二度つまづいています。キリシタン迫害で、そして先の大戦での郡部による迫害、日本キリスト教団結成で。最後の三度目は、私たちが勝利するのです。

 自分などにはとても、とても、と思われることでしょう。しかし弱く、力の無い私たちだからこそ、主はおもちいになるのです。自分を見るのではなく、主を仰ぎ見ましょう。神を愛するのです。その神に不可能なことはありません。神はかえって弱い者、なき者を通し、愛する者を通してご自身の栄光をお現しになるのです。リバイバルは始まりました。神を愛し、心からする賛美と祈りこそ、私たちの力です。神に聞き従って世での使命を忠実に果たし、再臨の主の前に出た時、「よくやった、忠実な者よ」とお褒めにあずかりましょう。

2015年12月 6日 (日)

クリスチャンのさばき

Ⅰコリント 3章13節

 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とと もに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。 

 非常に大ざっぱに言えば、神を信じない人にも、信じる者にも、一度だけ大きな判定があって、これを聖書では(死者の)さばきといい、第二の死とも言う。もちろんさばきは神がされる。これは恣意的なものではなく、その人が生前に行った膨大な記録による。そうなると人の死後は決まっていて、全員が有罪となり、例外なく地獄行きである。多少の善行があろうとも、芥川の「蜘蛛の糸」とは異なって、人には原罪があり、自己中心なので第二の死(地獄=火の池)行きは避けられない。

 ではどうしたら天国へ行けるのだろうか。イエス・キリストの十字架を信じる道しか人類には残されていない。天地万物を造られた神ご自身が、自分の罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったことを信じ、告白することである。十字架は全ての罪を帳消しにするスーパーカードのようなもので、天国とは正しい人が入るというより、罪人が赦された恵みで入れる所である。

 ところで神を信じた人にもさばきがある。そう言うと「エエッ」と驚かれるクリスチャンも多いことだろう。これはさばきというより「報い」というべきものである(1コリ3:10-15)。クリスチャンには第二の死はありえないので、確かに約束通り天国には行ける。ただし天国は、諸国の民が住む所と、天から降りて来る神の都エルサレム(黙示録21章)とがあって、気になるのはそのどちらに住めるのか?ということである。おそらくは神の都のエルサレム内に住める人とは、千年王国の時代、キリストとともに王となるような殉教者か、または携挙されるような信仰者(聖徒)だと私は見ている。このような方々が聖所の柱となられるのである。

 私はこの都に住むことを、皆さんと同じように熱望している。なぜならまず第一に神の近くに一時でも長く居て、賛美を捧げ続けたいと願うからだ。また神からの天上での新たな使命や任務もあることだろう。また次のような美しい都に住むことは、何という喜び、平安であろうか。天の都の中央には「光る命の川」と両岸には命の木(どんな木だろうか!)と毎月実のなる十二種の木があって、ここには諸国の民も来れるらしく「木の葉がいやした」とある(黙22章)。これが天国の実体なのだ。ここには悪や一切の呪いがないうえ、永遠の世界なのだ。想像するだけでも胸が熱くなるではないか。この都に住むには、神を第一とし、この血肉の体を神に惜しまずに捧げ、用いられることである。
 ただし誰ひとり例外なく、試練や困難、場合によっては殉教という、都に住むためのテストに合格しなければならない。逆に言えば厳しい人生のテストに出会うことは、神の子とされ、エルサレムに住まう恵みにあずかるチャンスである。心から賛美し神の愛をどこまでも信じ、感謝したい。

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