クリスマスについて(ひれ伏して拝んだ)
† マタイ 2章11節
クリスマスが終わりましたが、今一度クリスマスについて整理しておきたいと思います。このクリスマスには、あまりにも問題点が多いのです。そしてこのことを全クリスチャンは知っておくべきなのです。
まず聖書には教会が祝っていたという記述がありません。いわば聖書的な根拠がなく、イエスがご自分の誕生日を祝えとも、使徒たちが祝いましょう、などとは一言もありません。誕生の次第だけは詳しく語られてはいます。
次に羊飼いたちが野宿しておりましたので、季節が正しくありません。逆に12月25日、冬至であることが大問題なのです。この日はローマ時代、異教徒にとって「不滅の太陽の誕生日」でした。しかしことはそれほど単純なものです。キリスト教のはるか以前からエジプトやバビロン、ローマ、ギリシャ、アジアのヒンズーなどでは、偉大な解放者である特別な神の伝説があり、これらを遡っていくと、みな、よく似た一つの物語があるのです。
名高い神と女神・・・それは母と息子・・・に関わる物語なのです。最初は息子の方が主役で偉大な働きをするのですが、後にはその母が主役になって行くのです。彼に与えられた称号は、インドではヴィシュヌ、つまり「犠牲者の男」「救い主」とか「契約の主」として礼拝されていました。そしてその偉大な男の母は次第に礼拝され、やがて処女として崇められるようになり、「天の女王(エレミヤ44:17-19、25)」「アシュタロテ」「イスター」と呼ばれるのです。そして彼女は、偉大な太陽を生んだ存在となるのです。日本においてでも太閤秀吉の母は太陽を腹に宿したとされているぐらいです。そしてその太陽の誕生日が冬至の日なのです。
つまり「不滅の太陽の誕生日」である12月25とは決して拝んではならない異教の、つまりサタンの最大のお祭りであり、シンボルでした。カトリックが異教と妥協したクリスマスは、決して祝ってはいけないもので、プロテスタントが受け入れてはいけなかったものなのです。そのサタン的な性格は母と子にあります。このことをよく覚えておいてください。
また、この日は解放の日であり、日頃の束縛から解放されて、飲めや歌えの大騒ぎ、羽目を外す日でもありました。これもポイントです。
そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 マタイ 2章11節
本日の聖書箇所です。みなさんに三枚の絵を見せましょう。 初めの二枚には博士たちがイエスを礼拝している絵がありますが、博士たちの礼拝の対象が幼児イエスであるのか、抱いている母であるのか、その区別がつきません。
そしてそれが進んでいくと最後のグレコの絵のように、母であるマリアを礼拝するようになるのです。カトリックは「無原罪のマリアの御宿り」と「聖母マリアの被昇天」という聖書とはかけ離れた教義を持っています。これは人間に過ぎないマリアを神とする誤った信仰です。マリアが、まるで太陽を生んだ母のように礼拝されているのです。どうしてこのような誤りが生じたかというと、それは「不滅の太陽の誕生日」という、異教徒最大の信仰に迎合した結果であり、ちょうどイスラエルの民がカナンの地で聖絶を怠り、異民族と融合したために「高き所」を取り除かなかったために堕落したのと酷似します。
もう一度はっきりさせますと、12月25日、不滅の太陽の誕生日に起源を持つクリスマスとは、その母であるマリアを先ほどの三枚の絵のように崇拝させ、神でないものを神とする罪を私たちに犯させるものです。もしどうしてもキリストの御降誕をお祝いしてクリスマスをしたいのなら、せめて少しでも聖書に準じる別の日にしなければなりません。
この日は、サタンの術中にはまる最悪の日、ダメなのです。
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