失望に終わらない(希望という)信仰
† ローマ 5章5節
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちの与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
世ではクリスマスが近づいて、その意味もよくはわからずイベントを楽しんでいます。クリスマスは、処女マリヤから救い主イエス・キリストがお生まれになったことを祝う日なのです。この処女から生まれたということ、十字架で死なれ、そして復活されたと言うことを事実として確信するのが私たちの信仰なのです。何よりもまず、救い主が処女から生まれたということを曖昧にしてはいけません。世の人は信じずスルーして祝っていますが、クリスチャンはそうはいきません。少しでも常識がある人間ならば、そんなことは絶対ありえないことを知っているので、狂気の沙汰と思うことでしょう。しかしクリスチャンは信じるのです。
なぜならイエスが処女から生まれたのでなければ、単なる罪深き一人の人間に過ぎません。それが全人類の罪の身代わりにはなり得ませんし、罪があがなわれないので私たちの復活の希望は空しいのです。逆にイエスは罪のただ中に生まれた姦淫の子、私生児です。知性では到底理解できないことがらでも、信じるからこそ信仰なのです。逆に信仰がないと、神の力はその人に現れることができません。聖書に、神に期待する者は失望に終わることはない、そう書いてあるのですから、信じるのです。ことは人間の知性や理屈・考えに拠らず、ただ神に祈り依り頼むのです。
しかし中には神に期待し、「どんなに祈っても、祈りが答えられません」と言われる方もおられます。そんな方に処方箋があります。まず「成就しなかった」と思ってらっしゃるようですが、それは本当に時が来たものなのでしょうか? ジョージ・ミュラーという孤児院で有名なイギリスの器は、驚くべき祈りの結果を得ていますが、中でも親族五人がクリスチャンになる祈りを何十年も続けて祈っていました。その中の3人は成就しましたが、残り二人の内の一人はミュラーの臨終の時に救われ、最後の一人はミュラーが天に帰ってからかなり経って救われました。成就しなかったというのは自分が勝手に期限をつけて計られた結果なのかも知れません。
また御心の祈りではなかったら、神に聞き届けてはいただけません。心か自分を神に捧げ、主に聞き従って、虚心坦懐に祈られてのことだったのでしょうか。
最後に成就しないことにも、神の深い最善の計画があるからなのかもしれません。神の知恵と計画は図りがたく、私たちの想像をはるかに超えるものです。ですから、すべてを最善に変えられる神を、信頼し続ける決心が大切です。忍耐の価値がここにあります。
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