あなたの神である主を愛せよ
† マルコ 12章30節
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
昨日二人の牧師の「送る会」に参列してきました。召された状況はそれぞれであったり、自宅とエルサレムという場所の違いがあったりでしたが、示されたのは「命は神の御手にある」ということです。この命は神の許しなしに生まれることも、死ぬこともありません。
つまり御心があって私たちは生かされています。その御心とは何でしょう。内容は人それぞれでしょうが、証人という使命を果たすためであります。それが御心の通りに果たせるよう、祈りましょう。
さて今や世界はユダヤ教の一神教が席巻しております。ユーラシア大陸の西の果て、イスラエルに根付いたアブラハムの神が、ユダヤ教だけでなく、キリスト教、イスラム教の神です。今動画を見ましたように、ヒンズーや仏教なども部分的にはありますが、そのいずれもかつてはキリスト教などが宣べ伝えられた所なのです。日本も戦国時代の末期、当時の中心、西日本を中心にして広範にカトリックですが布教されました。そして今世界は聖書の預言通り、その終焉を、世界の終わりを迎えつつあるのです。つまり、「地の果てにまで(使徒1:8)」がほぼ成就した段階です。この時代にあって日本はイスラエルと似た、異様にクリスチャンの割合が少ない国です。伝道が困難なイスラムの国々にもはるかに劣ります。ですから私たちは、世界の終わり、終末に召された証し人なのです。
クリチャンには永遠のいのちが与えられており、やがて御霊の体が与えられます。その天国に行くことは凱旋であり、よろこびと勝利の時なのです。しかし神を信じない人にも、千年王国の終わり、さばきが終わったら、痛みや苦しみがわかる二度と滅ばない体が与えられます。つまりすべての人に血肉とは異なる滅ばない体が与えられますが、一方は自由であり、よろこびと感謝の賛美が満ちるところで暮らし、一方は自分の人生を自分の自由のために使い果たした報いとして束縛され、閉じ込められ、苦しめられます。それは滅びとしか言い様がない状態なのです。私たちの身の回りにいる職場の同僚、親族、親兄弟を、一人でもそんな所に行かせたくありません。この国でキリスト教は二度つまづいています。キリシタン迫害で、そして先の大戦での郡部による迫害、日本キリスト教団結成で。最後の三度目は、私たちが勝利するのです。
自分などにはとても、とても、と思われることでしょう。しかし弱く、力の無い私たちだからこそ、主はおもちいになるのです。自分を見るのではなく、主を仰ぎ見ましょう。神を愛するのです。その神に不可能なことはありません。神はかえって弱い者、なき者を通し、愛する者を通してご自身の栄光をお現しになるのです。リバイバルは始まりました。神を愛し、心からする賛美と祈りこそ、私たちの力です。神に聞き従って世での使命を忠実に果たし、再臨の主の前に出た時、「よくやった、忠実な者よ」とお褒めにあずかりましょう。
« クリスチャンのさばき | トップページ | 失望に終わらない(希望という)信仰 »
「神のみこころ」カテゴリの記事
- わたしの母、わたしの兄弟とは(2024.07.28)
- 後の方が良いに決まっている(2024.06.23)
- 心理的中毒症状(2024.06.16)
- 地獄に天国をもたらす(2024.05.05)
- 天に行く確かな歩み(2024.04.14)
コメント