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2016年1月

2016年1月31日 (日)

イチジクの木のたとえ

マルコ11章12~14節
11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
11:14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。


 福音書のイエス様の記事の中で、「イエス様って、むちゃくちゃなこと言い、やっててるなぁ。やっぱり完全な人ではなかったんだあ。」そう思われても仕方なところがあります。それが今日の聖書箇所です。これは、特に私たちのように、聖書は「原典においてですが、神のことば」であると信じる信仰にとって一大事であります。なにしろイエス様という方は、人間の格好をしておられているのですが、罪一つ犯されたことも、犯されることもない神様なのですから。
 しかしです、エルサレムに向かう途中、お腹が空いたので葉の茂ったいちじくの木が見えたので、そこに実が何かありはしないかと見に行かれました。しかし季節外れで、そこに実があるはずがありません。何の落ち度もない木に、おそらくですが、イエス様は頭にきて「枯れてしまえ」と呪われたのです。これはとんでもない神様ではないでしょうか。

 さらに訳がわからないのは、翌日枯れたこのいちじくの木をペテロが見て「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました」と言うと、「神を信じなさい」と「受けたと信じる信仰」を語ってくださっています。これはつながりが全くわかりません。訳がわからないことであります。
 神学者でもあった密林の聖者シュバイツアーは、この箇所を「数日後に迫った十字架刑、その死の恐怖で正常な判断ができなかった」のだとし、イエス様が神であることを否定しています。まあ、常識的な評価というものはこんなものでしょう。
 私はシュバイツァーのようには思えませんでしたが、しかしまた、どうしてかわかりません。有限なる人間が、無限なる神のされることを、全部理解できるはずもありません。判断を保留にし、いつかこれを神様が開いてください・・・・・そう祈りながら最近まで来ました。

 なぜか。イエスを神の子と信じるならば、死の恐れとか空腹なあまり、何の落ち度もない木を呪って枯らすなどとは、あり得ないことだと思うからです。「聖書は誤りない神のことばである」これは群れの告白であるとともに、私の個人的な体験としての確信です。大切なのは有限なる人間をわきまえ、人間の常識で神のことばを判断してはならないと思うからです。分からない事は教えていただけるよう祈り、それは御心であり必ず答えられるというのが、私たちの信仰なのです。三十数年前の私も、そこまで信仰が強かったわけではありませんが、保留にしていたのです。

 最近「聖書の世界が見える」という本の植物篇を読んで目から鱗でした。それに依りますと・・・・・・
 イスラエルではいちじくに関して二つの名前がありました。冬の終わり、春の初めにS_2真っ先に少し心もとない実をつける「バーグ」と呼ばれる初なりのいちじく」と、ふつうのいちじく「ティエナ」です。バーグ、これに秘密を解き明かす内容がありました。
ティエナと呼ばれる通常のいちじくは、5月から10月の終わりぐらいまで年に4、5回も実をつけるのだそうです。これに対し、バーグは春先の過ぎ越しの祭りの時期に絵のような小さな葉と実をつけ、約二ヶ月近くしてティエナの季節に、つまりいちじくのなる季節となります。バーグは小さく、甘さにも劣るので商品価値はありません。したがってバーグは誰でも取って食べて良いものでした。半年近くの長い冬の間、果物の甘さに飢えていたイスラエルの人々にとって、バーグは待ち遠しかった果物だったのです。

 こうなると、イエス様が近づかれたのは、バーグを取りにであったことがわかりますし、いちじく(=ティエナ)のなる季節ではなかった(マルコ11:13)のも当然です。しかし小さな葉が繁っていてもそこにバーグはありませんでした。バーSグを実らせない木というものは、ティエナも実りません。こういう実をつけない木は、場所をふさぐだけなのです。
 ルカ13:6-7 ぶどう園に植えられたいちじくの木が3年たっても実をつけないので農園主が「場所ふさぎだ、切り倒せ」と園の番人に言いますが、だからイエス様が枯らされたからと言って、それはかえって手間をとらせず、喜ばれた結果となったことでしょう。バーグが実らない木なら、問題はありません。

 イエス様のされたことは、当時習慣に従ってみればすべて納得の行くものです。シュバイツァーや他の人が単に知らなかった、というだけでなく、いかに人間的な解釈を施したか、神のことばとして聖書を受け取っていなかったかということを、明らかに示すものです。私たちは間違いを犯す者ですが、分からない事があったとしても、自分の判断を優先させ、まるで自分の判断が聖書の上にあって、解釈してしまうのか。さもなくば誤りなき神のことばとしての聖書として、信仰的に対応するかどうか、そこを神様は見ておられることを感じるのです。
 いちじくの木を枯らされたことは、超自然的なS1神の奇跡でした。それだけに終わるものではなく、このいちじくの木が、3年半にも及んだぶどう園の主人(神)の努力に酬いず、実を実らせることがなかった・・・・・イスラエルのことを暗示しているのです。つまりこれは、イスラエルの審き預言であり、その成就なのです。ですから「さばきの時が近いから、神を信じ、天国へ救われなさい」と福音を語っておられるのでした。アーメンです。

2016年1月24日 (日)

信仰の大盾

エペソ 6章10節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 先週も触れましたが、「恐れ」は誰にでもあり、避けられないものです。しかし恐れに支配されることは、とりもなおさずサタンに支配されることと同じです。

 ではどう対応するか?これが今日のテーマです。ある方が「かつての踏み絵のように、いざその立ち場に置かれたら、自分は神を選べるかどうか不安で仕方ない」という相談にあずかりました。
 浦上四番崩れの初期では信仰の堅い68の村人の中で、ただ一人、「高木仙右衛門」だけが信仰を守り通しました。体が弱いことを自覚していた仙右衛門は、何があっても信仰が守られるよう祈っていたのです。こうして祈っていた仙右衛門だけが守られた、これは祈りに特別な力があることがわかります。信仰を貫けるよう神の助けを求めるのは、御心の祈りですし、御心ならば神は必ず守ってくださるという確信が信仰なのです。私自身もありありと思い出されることがありました。

 確か15歳の前後だったと思いますが、遠藤周作「沈黙(1966年初版)」を読んで、ひどく恐れの感情に支配されたことがありました。この命を賭してまでも信じられるかという恐れが、二十歳まで私を教会から遠ざけました。この本はまさに躓きの石であり、サタンの妨害でした。
 二十歳になって、学生運動で挫折を経験し、自分の罪深さを認識し、恐れをひとまず棚上げにして信じることにしました。また、天地万物を創造された神の実在を星々の運行を見て感じとれたからでした。まず神の実在、神を信じることにしたのです。
 結局答えは長い間出ませんでした。しかしこれをあいまいにして、私は信仰的に堅く立つことはできなかったことを思い出します。しかしそれは、ついに打ち破られる時が来ました。福音派の信仰から、カリスマ派の信仰へと、神が語られるという霊的な体験をしたからでした。これは実は深い悔い改めから始まった、神は生きておられ、個人に語られるという体験だったのです。そして大切なことは、神様との深い交わりを通して、神様の御性質がわかり、祈り信頼するという信仰が堅くされたからでした。

 信仰とは何でしょうか?神への信頼です。これは神との直接的な親しい交わりの中から生まれるものでした。頭でどんなに信じようとしても、命を捧げることはできませんし、その恐れを振り払うことはできないことでしょう。神は小説「沈黙」にあるような究極的な問い、踏み絵のような究極的な選択を迫られた時でも、弱い私たちをご存知な方は、祈りに応えて守ってくださり、神にはその力がある(=with God all thing are possible)、この信仰の大盾で私たちは恐れに対応するのです。

2016年1月17日 (日)

恐れないで、ただ信じなさい

マルコ 5章36節
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

 この聖書箇所はイエス様が、娘が死んだと聞かされた会堂管理者ヤイロに言われた言葉です。ヤイロはこの言葉を聞いて、家の者が言うように「娘は死んだので、ご無用です」とは言わなかったのです。イエス様がなぜ「恐れるな」と言われたのか、それはイマイチわからないのですが、ヤイロは客観的な事実より、イエス様のこの言葉を信じたからこそ、娘の命を再び戻していただく超奇跡、恵に与れたと言えましょう。

この少し前の聖書箇所で、同じafraidの言葉が用いられました。ガリラヤ湖を横断していた舟が暴風で、プロから見ても危険な状態になった時のことでした。艫の方で寝ておられたイエス様は風を静め、弟子たちに「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」と叱責された箇所です。ここでは恐れる、こわがるのは「信仰がない」と言われているのです。

 「恐れる」感情というものは、人間の基本的な感情であり、国から個々人に至るまで、人を支配し時に駆り立てる強い動機となるものです。人によっては程度にかなりの差がありますが、土台には「(自分を)守るという強固な存在欲求があります。イエス様がこの「恐れるな」と言われる時、それはヤイロに言われたのと同じように、対語である「信頼」を選び取るようにとの勧めがあるのです。「恐れ」は悪霊が人間を支配する常用道具であるのに対し、「信頼」は信仰そのものであり、その実として神から来る愛・喜び・平安とは、決して互いに相容れないものです。神を畏(おそ)れること以外のいかなる「恐れ」も神からのものでなく、これをもって人を支配しようとする悪霊から来るものです。

 さて信じる信仰とは何でしょう。実は「恐れる」・・・・そのなかに神より自分の守りを優先している不信仰を見ます。恐れる者は、「神は自分を完全に守ることはできないのだ」と自ら明らかにしているのです。逆に信仰とは、恐れないことであり、「神にとって不可能なことは一つもありません(ルカ 1:37)」と恐れに打ち勝って告白し、ヤイロのように実際に選択することです。これは行いではなく、信じたことを選択する決断を指していると私は受け取ります。

 上述のことができるよう、マーリンさんはクリスチャン一人一人に許される試練とか困難によって、「肉の心、つまり守りの心が徐々に焼かれ、ついには丸焼けになっていく神の愛」と表現しておられましたが、言い得て絶妙だと思われました。神を信頼し、ついには全面的に自分を捧げて行くにためは、自分の努力でもなく、決断であること。それが神の導きによって形成されていくダイナミックな人生をお一人お一人に見ることができます。こうして私たちは信仰者として不安や恐れから解放され、愛・喜び・平安を信仰に添えて与えられる恵に与るのです。

2016年1月10日 (日)

あなたの来られる時

マタイ 24章3節

 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 この聖書箇所は数日前の聖書通読箇所ですが、見逃せない重要なところです。それは、黙示録以外で終末に関して最も多くの記述があることや、神であるイエス様ご自身が語られているからです。

 3節で弟子たちが「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」とイエス様に問いました。「あなたの来られる時」とはキリストの地上再臨の「時」であり、それはA.D.(主の年、恵みの年)が終わり、世界の終わりが来ると考えられている「時」のことでした。その前兆(sign)を教えてくださいと請うたのです。イエス様は丁寧に次のような十の前兆を教えてくださいました。それは二千年後の、まさにその時が来ようとしている私たちにもわかるようにです。

①偽キリストの出現。②戦争や戦争の噂。③民族の対立。④飢饉。⑤地震。⑥宗教的な迫害。⑦つまずきや背教が起こる。⑧偽預言や宗教的な混乱。⑨人々の愛が冷める。⑩リバイバルが本格化する。

 しかし、実際に○月○日が再臨の日、とわかることは決してないのです。その「時」を決断されるのは、ただ父なる神だけです。神の右に座しておられるキリストですら知ることはない、と断言されました。逆に再臨の日時を語る者がいたとしら、それは簡単です。100%の確率で偽者だと判ります。

 またキリストが再びこの地上に来られたなら、それは神を信じなかった全世界の人にも一瞬でわかるよう、その有様を教えてくださっています。全世界にラッパが鳴り渡り、天の方から大勢の軍勢と聖徒を引き連れ、キリストが昇天された時と同じように、雲に乗ってオリーブ山に降りて来られる(31節)のです。しかし私たちは、決して、地上にいてそれを見たくはないのです。

 キリストの再臨は何のためでしょうか? 第一に滅亡寸前のエルサレムを囲んでいる世界の軍隊を滅亡させ、サタンに支配されているこれまでの世界を終わらせて、千年王国という新たな世界を造るためです。これにてアブラハム以降キリストまでの二千年間と、キリスト以降二千年続いた恵の時代は終わる事になります。次にご自分を信じる聖徒たち、すでに肉体を失った者も失ってない今生きている者にも(これを携挙と言う)、そのすべてに御霊の体を与え、復活させるためでもあります。実はこの方が先に行われ、神は携挙し復活した聖徒たちを皆引き連れて、天の雲に乗って再び地上に降りて来られるのです。それは誰もが時を知ることがない時であり、突然なのです。

 私たちはそれまで朽ちない栄光の体に変えられるまで、教会の兄弟姉妹を愛し、目を覚まして正しい生活、つまり罪を悔い改め、罪から遠ざかった生活を送っていかなければなりません。

2016年1月 3日 (日)

神のみ心

マタイ 20章1-7節
  彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

 パレスチナでは葡萄が熟すのが九月で、その後すぐに雨期が来ます。その前に葡萄を収穫しておかないと、葡萄が腐ってしまいます。ですから収穫期には人手が必要で、実際1時間だけでも働く人は歓迎されました。日雇い労働者は、朝、町の市場に立って誰かが雇ってくれるのを待っていました。使用人や奴隷と違って、雇用主がいない日雇いは、収入がなければ即、飢える恐れがありました。通常彼らは、朝6時から夕6時まで働きました。Photo_2

 今回新たに何点か気づいたことがあります。主人は9時と12時、午後5時に市場に行っていますが、「別な人たちが立っていた」とあるので、行く度に市場に居た全員を雇ったようです。その際、9時と12時の人には「相当なものを上げる」からと言い、5時の人には、その約束はしていません。通常は働いた時間に従って賃金が支払われますので、9時からの男には3/4デナリ、昼から男には半デナリ、5時から男にはよく出て1/10デナリぐらいの相場だったのではないでしょうか。次に賃金の支払いをこのたとえでは5時からの順にしています。私なら絶対朝6時の人から支払います。これは彼らの文句を引き出す意図があったと理解できます。

本題です。朝6時から働いた人たちとは「私たちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。何がいただけるでしょうか」とイエス様におねだりした、ペテロへの答えです。ここで天国での神の報いの基準が明瞭にされます。それは○○したからとかの功利的なものではなく、愛とあわれみの神が公平で正しくさばかれるのです。

 たとえ1時間しか働かなくとも、彼らには1タラントの資格がありました。仕事にあぶれ続け、雇ってくれる町々を探して歩いた彼らは、どれほどの失意や不安に苦しめられて来たことでしょうか。額もですが、最後のわずかなチャンスに望みをつないでいたのです。

 ぶどう園の主人(神)は自分の利益だけを見るのでなく、人の心と苦しみを見て判断される主人でした。私たちの神、主は愛とあわれみに満ちた存在なのです。このたとえで弟子たちを教え諭されたように、私たちもこの神の御心を知り、功利に走らずに仕え、どんなに不遇と失望とが来ようと、神に期待し、必ず報いてくださるかたであることを知り、希望と喜びを持って信じ従いましょう。

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