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2016年1月24日 (日)

信仰の大盾

エペソ 6章10節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 先週も触れましたが、「恐れ」は誰にでもあり、避けられないものです。しかし恐れに支配されることは、とりもなおさずサタンに支配されることと同じです。

 ではどう対応するか?これが今日のテーマです。ある方が「かつての踏み絵のように、いざその立ち場に置かれたら、自分は神を選べるかどうか不安で仕方ない」という相談にあずかりました。
 浦上四番崩れの初期では信仰の堅い68の村人の中で、ただ一人、「高木仙右衛門」だけが信仰を守り通しました。体が弱いことを自覚していた仙右衛門は、何があっても信仰が守られるよう祈っていたのです。こうして祈っていた仙右衛門だけが守られた、これは祈りに特別な力があることがわかります。信仰を貫けるよう神の助けを求めるのは、御心の祈りですし、御心ならば神は必ず守ってくださるという確信が信仰なのです。私自身もありありと思い出されることがありました。

 確か15歳の前後だったと思いますが、遠藤周作「沈黙(1966年初版)」を読んで、ひどく恐れの感情に支配されたことがありました。この命を賭してまでも信じられるかという恐れが、二十歳まで私を教会から遠ざけました。この本はまさに躓きの石であり、サタンの妨害でした。
 二十歳になって、学生運動で挫折を経験し、自分の罪深さを認識し、恐れをひとまず棚上げにして信じることにしました。また、天地万物を創造された神の実在を星々の運行を見て感じとれたからでした。まず神の実在、神を信じることにしたのです。
 結局答えは長い間出ませんでした。しかしこれをあいまいにして、私は信仰的に堅く立つことはできなかったことを思い出します。しかしそれは、ついに打ち破られる時が来ました。福音派の信仰から、カリスマ派の信仰へと、神が語られるという霊的な体験をしたからでした。これは実は深い悔い改めから始まった、神は生きておられ、個人に語られるという体験だったのです。そして大切なことは、神様との深い交わりを通して、神様の御性質がわかり、祈り信頼するという信仰が堅くされたからでした。

 信仰とは何でしょうか?神への信頼です。これは神との直接的な親しい交わりの中から生まれるものでした。頭でどんなに信じようとしても、命を捧げることはできませんし、その恐れを振り払うことはできないことでしょう。神は小説「沈黙」にあるような究極的な問い、踏み絵のような究極的な選択を迫られた時でも、弱い私たちをご存知な方は、祈りに応えて守ってくださり、神にはその力がある(=with God all thing are possible)、この信仰の大盾で私たちは恐れに対応するのです。

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